--展覧会シーン:2005年日本国際博覧会開催記念展 世紀の祭典「万国博覧会の美術」開幕。
会場:大阪市立美術館[天王寺公園内]会期:2004年10月5日(火)〜11月28日(日)
(Page-03/取材:ストリート・アートナビ)
19世紀末に工芸に与えられた新たな役割に注目し、20世紀に向けて様々な展開を示す工芸家たちの姿を紹介。
幕末から明治前期にかけて日本工芸は西洋に驚きと称賛をもって迎えられ、工業の未成熟な日本にあって重要な輸出品となっていた。万国博覧会はそうした日本工芸を広く海外に宣伝する重要な場であるとともに、先進の技術と市場の流行を知る上でも貴重な場であった。(中略)
明治後期になると工芸に新しい役割が与えられる。ここでは明治26年(1893)のシカゴ万国博覧会に焦点をあて、明治後期において工芸に与えられた新しい役割に注目している。シカゴ万国博覧会では工芸を含めて美術と考える日本的な美術観を西洋にぶつけ、帝室技芸員とかなりの部分が重なっていく美術家、工芸家たちによって作られた御用品を中心に「日本美術」が美術館を飾ることになった。

ところが明治33年(1900)パリ万国博覧会では必ずしも同様の成果は得られなかった。工芸は美術から再び切り離される。その一方でアール・ヌーヴォーの博覧会とも呼ばれるこの博覧会では西洋で工芸が新しい輝きを持ち始めていた。1900年パリ万国博覧会を経験した工芸家の中には新しい動きを始める者も現われる。またアール・ヌーヴォーとは一線を画する者も現われる。工芸の中のそれぞれの分野で、さらにはそれぞれの工芸家の中で、20世紀の工芸に向けてこれまでに無かった多様性を示しながら展開していく。(展覧会図録より転載)
シカゴ万博では工芸を含めた日本美術が美術館に並べられ画期的な展示になった。そのために国がコントロールしお金を用意する。かつてのごった煮が近代的に変化し、職人が個人の作家に移る時代でもあった。産業としての工芸と工芸としての工芸がこの頃から分かれてきた。
背景:「老猿」高村光雲 明治26年(1893)東京国立博物館
下左端:
「白磁蝶牡丹浮文大瓶」清風与平(3代) 明治26年(1893)
下右端:
「黄釉銹絵梅樹文花瓶」宮川香山(初代) 明治26年(1893)東京国立博物館
▲高村光雲の代表作「老猿」がじっと虚空を見つめる。迫力の一品。