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■展覧会シーン:熱情の巴里(パリ) 佐伯祐三展 (記者発表&内覧会)
大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室/取材日:2004年10月8日 ストリート・アートナビ
開設記念展として、近代美術館コレクションの中核である
佐伯祐三の所蔵全作品約50点と関連資料を特別公開。
台風22号が近畿を伺う様子を見せていた10月8日(金)にパリに生きた画家、『佐伯祐三展−熱情の巴里−』の記者発表と内覧会が大阪・心斎橋に新しくオープンした大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室であった。
・日本的フォーヴの旗手として近代日本美術史にその名を留める佐伯祐三は、1898年、大阪中津に生まれました。東京美術学校を卒業後、パリに渡った佐伯は、ヴラマンクに「アカデミック」と作品を批判されたことをきっかけに、自らの作風を模索しつづけます。そしてパリの石造りの建造物とその壁に描かれた広告の文字を見出し、
踊るような描線を特徴とする佐伯独自の様式を確立しました。わずか30歳でパリの地に死すまでの短い間、命を削りながら生み出された作品の数々は、今なお多くの人々の心をとらえつづけています。

展示室は地下鉄心斎橋駅と長堀橋駅の中間の便利なロケーション。天井の高いゆったりとしたアートスペース。
佐伯祐三絵画の魅力とは・・・。
・佐伯祐三も、30年という短い生涯ながら多くの光を身のうちに取り込み、内部に屈折させて鏡の反射を増幅させながら、作品制作というかたちで強烈な光を放った。それを可能にしたのは、幼児のように無垢で純粋、そして柔軟な芸術家の魂であったが、外から注ぎ込まれた多様な養分がその骨格を形成したことを忘れてはならない。(中略)パリに戻って一気に華ひらいた線の絵画、ポスター文字やテラスの椅子から人物に至るまで、リズミカルで繊細な線のアラベスクに還元され、あるいは線の束が離合集散して事物のイメージを生成するといった画面のありようは、日本の書画に通底するものである。また、佐伯が愛した弦楽器(学生時代はチェロ、パリ時代はヴァイオリン)の、線的なメロデイーに連想を誘うものかも知れない。ピツィカート混じりの切れぎれな旋律と激しく往復する弓遣いが《カフェ・レストラン》連作なら、《モランの寺》など最晩年の連作は、弓を両端まで用いるゆるやかなアクションから紡ぎ出された、力強くスライドする息の長い旋律であろう。それが厚塗りと薄塗りの交錯で生まれた色彩諧調の上に、見事な線の音楽を奏でたのである。(熊田 司/大阪市立近代美術館建設準備室研究主幹)展覧会図録より部分転載
左:「モラン風景」(Landscape in Villiers-sur-Morin)1928年/右:「彌智子像」(Portrait of Yachiko)1923年

・佐伯の視点は、この頃から次第に個の建物に迫り、生活感の満ちた裏町の建造物を画面いっぱいに描き出すようになる。ヴラマンクの呪縛から解かれ、ユトリロの影響も脱し、佐伯が自らの眼で見出し、創りあげたパリの姿が、この時期確立するのである。《壁》では、画面のほとんどを占めているのはまさしく壁であり、画家の関心が、汚れたりはげかけたりしている壁の重厚なマチエールの表現にあることが分かる。古びた壁に実際に書かれていた文字がそのまま写し取られており、かすれた字体が古壁にさらなる表情を付け足している。(高柳有紀子/大阪市立近代美術館建設準備室学芸員)展覧会図録より部分転載(※上の作品の解説ではありません。以下同様)
左:「黄色いレストラン」(Yellow Restaurant)1928年/右:「郵便配達夫」(Postman)1928年

・佐伯のパリへの想いは消えることなく、むしろ日に日に高まっていった。パリにいた中山巍に、日本では描く題材に困っており、近いうちに渡仏してパリの黒ずんだ壁や広告や自動車小屋の横文字をもう一度うんと描いてみたい、という手紙を寄越したという(「佐伯の第二次滞仏」『一九三○年叢書(一)画集佐伯祐三』1929年)。(高柳有紀子)展覧会図録より部分転載

・石造りのパリの街も欧州の厚い伝統も、そして油彩画の王道も、ついに東洋からやって来た画家の前に扉を開くことがなかったのか。多分、佐伯は造形的な感興を覚えて扉をモティーフに選んだのであろうが、画面を支配するのは固く閉ざされた圧迫の感情である。
(熊田 司)展覧会図録より部分転載
左:「煉瓦焼」(Brickkiln )1928年/右:「カフェ・レストラン」(Cafё Restaurant )1928年

・佐伯ほど、作品と人生が結び付けられて語られる画家はいないだろう。またそうさせるのは、佐伯の生み出した作品が、その時々の心情の吐露であるかのように、強い個性を放っているからである。
・実際に作品を目の前にした時に、画家が絵筆に込めた魂のようなものを感じずにはいられない。そこには佐伯祐三という画家の眼と手によって伝えられた個性を強く意識せざるを得ないのである。佐伯祐三にとって、パリとは、佐伯の個性を受け止める街だったといえよう。では、パリの街景に投影された佐伯の個性とは何だったのか。そしてこれほどまでに佐伯を制作へと駆り立てたものは、なんだったのか。佐伯祐三という個の人間の理解は、その答えに近づく一歩となるはずである。
(高柳有紀子)
左:「靴屋」(Shoemaker)1927年/右:「レ・ジュ・ド・ノエル」(Les Jeux de Noёl)1925年

・佐伯祐三は、劇的(ドラマチック)な生涯と作品、遺族や友人たちの証言によって、日本の洋画家で最も伝説化されて語られてきた画家である。しかし佐伯の“伝説”や“神話”には、彼の逸話(エピソード)だけでなく、才能豊かなこの画家を没後に発見し、世に出した一人の蒐集家(コレクター)の物語が存在した。

・「こんな魂の籠った真剣な作品を、殆ど一生のものを、全部自分の所有に出来るといふことには感慨無量でした。/勿論同時に段々と不思議な情愛と責任感がついて来まして、最早どんなにでもして、この人の名を不朽なものにしなければならぬと決心したことでした。」
・「芸術には個性がなければ生命がないわけである。それと同様に芸術の鑑賞と理解にも亦個性がなくてはならぬ」として「蒐集も亦創作なり」と言う。
・發次郎の佐伯作品への理解そのものも個性的であった。彼が佐伯に魅せられた最大の理由の一つが、力強い輪郭や鋭い描線が“書”に通じたためであることは、次のように墨蹟や禅画との共通性を述べていることから想像できる。
・發次郎が俵屋宗達(?〜1640頃)と尾形乾山(1663〜1742)など琳派に佐伯をなぞらえ
、「豪華な渋さ」と指摘したのは佐伯の本質を見事に衝いた言葉であろう。
(橋爪節也/大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員)展覧会図録より部分転載
左:荒堀立夫(近代美術館建設担当課長)/右:橋爪節也(大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員)

継続的にコレクション展をやって行きたい。
・荒堀近代美術館建設担当課長の話では大阪市立近代美術館建設の現在の進捗状況は中之島に用地は確保しているが昨今の経済状況の中でしっかりとした実施計画がないとのことであった。この心斎橋展示室は商業地、繁華街にあり、交通至便で買い物ついでに寄れるのでここを活用して継続的にコレクション展をやって行きたい。また国の内外からも見に来れるので期待していると語った。
・主任学芸員の橋爪氏は「心斎橋展示室の開設記念に何をするか考えたが、考える迄もなかった。50点の油彩画、日本における最大の佐伯祐三コレクションは(戦前の蒐集家で実業家の山本發次郎氏の40点におよぶ佐伯作品や、墨蹟・染織など500点以上の作品が1983年に大阪市に寄贈された。)近代美術館構想のハート・魂にあたる部分であり、また佐伯祐三の短い人生がここにくれば分かる内容になっている」と熱い思いを話された。
◎本展の最大の魅力は開設記念に日本最大の佐伯祐三コレクションを一挙に公開し、初期からパリ郊外の病院で亡くなる直前までの佐伯祐三絵画の全体と真髄をガラス越しにでなく筆や手の動き、マチエール(絵肌)まで間近に見れるところにある。パリの街の虜になり、自身と愛娘の命迄を引き換えに得た佐伯独自の画風、絵の個性とは、パリへのこだわり・・・それらを知り心に留める絶好の機会である。
取材日:2004年10月8日/掲載日:10月13日
取材・写真・Webデザイン:ストリート・アートナビ 中田耕志
※上記の説明、写真キャプションは展覧会報道資料、図録、同館学芸員の説明を参考にしました。
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