このホームページの特質 当院のモットー 院長自己紹介 所在地・地図・パーキング 日本の医療事情に関する私見 皮膚科専門医「徒然草」
院長自己紹介
 持田耕己(もちだこうき)1962年・昭和37年、千葉市に生まれる。父親はサラリーマン。転勤にて神奈川県藤沢市に転居。大学入学まではそこにて暮らした故、ここが故郷との印象。小学校4年生になるまでは勉強嫌い。スペース・インベーダーが開発された時は高校生だった世代なので、もっぱら外遊びに熱中していた。4年生の担任の先生が、「学生は勉学が仕事である。」との主義の方で、恐ろしく大量の宿題を出された。クラスメートは適当に抜いていたが、真面目なわたしは泣きながらもこれをこなした結果、6年生になる頃には成績優秀者になっていた。母親は栄光学園に入学させたがっていたが、生来の能力からして届く学校ではなかった。中学校1・2年は生涯で最も勉学に勤しんだ。日曜日には1日14時間勉学することも珍しくなかった。3年生の時にわたしの単細胞的思考に危惧を抱かれた国語担当の先生から、下村湖人の「次郎物語」を勧められたことが人生の転機になる。偶々読んだ「金閣寺」の文体・多様な語彙・屈折していながらも最後はしっかり締める物語の流れに魅せられ、高校1年には三島の小説で文庫化されていたものはほとんど読破。一気に文学青年へ変身する。高校は当時、東大への合格者数ベスト10に入っていた湘南。ここでクラスメートの能力の高さ・万能さ・押しの強さ・プライド等に圧倒される。学内が小エリート社会であったことより、ここでこの程度なら、実社会に出ても同様の立場になることが目に見えて、勉学せず。アーサー・C・クラークに代表されるハードSFに逃避する。比較的日本史に興味があったので、奈良で遺跡発掘でもするかと考えていたところ、母親が養母に話しを付けて、私学の医学部への進学の道が開ける。今考えるとこれが第2の転機だった。一浪の後順天堂へ入学。医師の子弟のお坊ちゃま・お嬢様の集まりと予想していたが、経済発展を遂げた日本には色々な職種で経済的に成功した方々が居られて、意外に多様であった。但し時代はバブル前夜。二世達は一様に脳天気であったように思うし、わたしもその例に漏れなかった。6年生になり、卒業後の専攻を決めなければならない時期が到来。医家に関係のないわたしは、何でも選ぶことができたが、逆にこれが難しい。内科は専門別に分科しており、皮膚科等マイナーと呼ばれる科目より逆に領域が狭く感じて、最後は皮膚科か精神科かで悩むが、授業中に「俺が今ここでたばこを吸ってもお前たちは構わないよな。」という小泉首相に劣らないパフォーマンスを見せた小川先生に将来性ありと見て皮膚科を選択。わたしの予想は中り、教室は発展。順天堂自体の発展もあり、小川先生は後に理事長にまで昇りつめられた。教室では色々あったが、この辺の話しは学生時代の思い出話し同様に語るには差し障りがあるので省略。医学部の教室での優劣は研究者としての優劣が基本であるが、わたしは研究には向かないと思ったので、大学に残れない・残るべきでないと考え開業した。小川先生の方針で、他学に比較して大学在籍時代から患者さん数は多く診て来たが、開業後大学病院医と違ったセンスが必要なことが判明。修正を加えながら今日に至っている。医師にはまるで俳優のように、表情・声音を使い分ける方がいらっしゃるが、わたしは全く不得手であるので、正に直球勝負である。気の利いたことも言えないので、医師の言葉が持つプラセボ効果も弱いと思う。カリスマ性に溢れた先生を羨ましく感じる一方、専門職として、良き情報提供者・技術者であることも時代の要請と考えている。
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