
蕪栗沼は宮城県の北上川水系にある面積約150haの湿地です。沼といっても大部分はヨシやマコモなどの植物におおわれていて、水面は少ししかありません。沼は天然記念物の渡り鳥、マガンの国内有数の越冬地であり、毎年4万羽以上が飛来します。オオヒシクイやオジロワシなどの天然記念物、オオタカやチュウヒなどの絶滅危惧種など219種もの鳥類が観察されています。
沼はまた、周囲の沼や家屋を洪水から守る遊水地でもあります。堤防に囲まれた3つの水田に一時的に水を貯めることで、洪水の被害が周囲に広がることを防ぎます。
蕪栗沼は、宮城県の北部に広がる平野「仙北平野」にある面積約150ヘクタールの沼です。沼といっても大部分はヨシやマコモで覆われている「湿地」で、周辺は沼を干拓してできた水田に囲まれています。天然記念物マガンの国内最大級の越冬地で、平成17年には、国際的に重要な渡り鳥の生息地を保護する「ラムサール条約」の登録地に指定されています。

蕪栗沼は、もともと北上川があふれた水が流れ込む自然遊水池でした。蕪(かぶ)のように美味しい栗の林が沼の辺に広がっていたことが、蕪栗の名の由来とされます。1610年、伊達政宗の命によって北上川の河川改修と新田開発が行われるようになり、沼も周辺が水田に干拓され、現在のような形となりました。
| 海の底だった縄文初期 |
| 貝塚でわかる淡水化の歴史 |
| 北上川の改修と干拓の歴史 |
| 太平洋戦争と食糧増産 |
| 蕪栗沼の名前の由来 |

平成9年河川法が改正され、目的の中に「河川環境の保全」が加わりました。宮城県の呼びかけにより環境と治水の調和を目指した「蕪栗沼遊水地懇談会」が開催されます。宮城県猟友会の狩猟自粛と、水田だった白鳥地区が沼に戻されたことでマガンの越冬数が大幅に増え、国内最大級の飛来地として知られるようになります。
| カスリン・アイオン台風 |
| 蕪栗沼遊水地事業 |
| 狩猟の自粛 |
| 遊水地懇談会の設立 |
| 白鳥地区の返還 |

平成11年、大崎市(旧田尻町)で渡り鳥の食害を補償する条例が制定され、これまで害鳥とされていたマガンとの共生を目指す動きが活発になります。環境教育やグリーンツーリズムで蕪栗沼が活用され、農業者の間でも渡り鳥と共生する農法がはじまります。平成17年には周辺水田とともにラムサール条約に登録されました。
| 食害補償条例の制定 |
| 環境管理基本計画の策定 |
| 環境教育とエコツーリズム |
| 農業との共生 |
| ラムサール条約に登録 |
沼はどうやって行けばいいのですか? 蕪栗沼の名前の由来は? 沼の水質は? 沼の水深はどれくらい? 沼にまつわる昔話はありますか? 洪水はどれくらい起こるのですか? 遊水地って何ですか? 宿泊する場所はありますか?
蕪栗沼は昔は海だった!?
いまは田んぼや沼、あるいは道路があるところが、昔は海だったなんて信じられますか?。でも、本当のことなんです。いまから約1万年前は、海面の高さがいまより数メートルから数十メートルも高くて、ほとんどの平地が海の底だったと考えられています。
その証拠のひとつが、地形です。瀬峰川・小山田川・萱刈川などの旧迫川流域の地形は、広い広い平地にまるで島のように丘陵地帯が点在しています。
蕪栗沼と加護坊山:縄文時代はこのような風景が全体に広がっていたと考えられている
このような広い平坦な場所の地層は、川から流れてきた土砂が海に流れ込んできたときにできる地層です。地質学的には「沖積層」といって、氷河期が終わった1万年前以降に、砂や粘土やシルト(細かい砂)がたまった地層でできているのです。これに対して、丘陵地帯の方は、1万年より前に火山活動や地殻変動でできた地層からできています。
もう一つの証拠が、縄文時代の遺跡にあります。旧迫川流域周辺には、縄文時代のはじめからおわり頃までの貝塚がなんと25もあります。こんな場所は全国のどこにもありません。しかも興味深いことに、縄文時代はじめから発掘される貝は海水性のものなのに、縄文時代おわり頃から発掘される貝は淡水性のものに変わっているのです。これは縄文時代の6000年の間に、ゆっくりと開水面が低くなり、海から平地に変わっていったことを示しています(中沢目貝塚�1995)。
このように田尻や南方、瀬峰、米山、涌谷、迫などの旧迫川流域は、縄文時代に海だった頃の蕪栗沼からとれた生きものを食べて人々が暮らしていたことが分かっています。有名な遮光器土偶も発掘されており、当時の日本の中では、かなり高い文化水準でもありました。江戸時代の古文書に「もと沼辺に大栗林あり、其の実は拳(こぶし)のようで、味は甘味、蔓菁(つるかぶ)のようであった。世人は葛(くず)の菁(くずもちの材料?)を菁栗といったので、この名が出た」とあいります。蕪栗沼のほとりには、大きな栗の木の林が広がっていて、縄文時代の人が栗を栽培していたのではないかと考えられているのです。また、これが蕪栗沼の名前の由来(※注)でもあります。
蕪栗沼の名前の由来について
カブが先かクリが先か(笑)
実は蕪栗沼の名前の由来には、もう一つ説があります。最初の「蕪(かぶら)のように美味しい栗がとれたので蕪栗という名前が付いた」という説は、1761年に仙台藩の儒臣である田辺希文が編纂した「封内風土記」にある記述です。
一方、1776年に仙台藩は寮内郷村に書き出させた風土記「安永四年風土記御用書出」には「当村(蕪栗村)の熊野神社近くの畑に植えた蕪(かぶ)は、栗のような風味があったので、神名を蕪栗明神として崇め、やがてそれを村名に名付け候由、申し伝え候事」という記述があり、逆に「栗のような味のカブがとれたので蕪栗という名前が付いた」となっているのです。どちらが正しいのかは、現在となってはよく分かりません。
沼が平地にならなかったわけ
蕪栗沼や伊豆沼・内沼は火山活動でできた陥没地形のあとです!
縄文時代に海だった平地の中で、どうして蕪栗沼だけが沼として残ったのでしょうか?それはもともと蕪栗沼のあたりは、火山活動で陥没が起こったあとで、地面に穴が開いたような場所だったからです。そのため他の場所よりもともと標高が低い場所だったのです。実は伊豆沼や内沼も同じように火山活動でできたと考えられています。
蕪栗沼の標高は、現在の海の高さよりたった3メートルしか高くありません。もし地球温暖化で、南極や北極の氷が溶けだし、開水面が上昇したらこの地域はもとの海に戻ってしまうでしょう。
どうやって沼ができたの?
現在の蕪栗沼はどのようにしてできたのでしょう?
海だった蕪栗沼は、やがて海面の高さが低くなると大きな平野と沼になりました。普段水がないところでも、大雨が降ったりするとあたり一帯が水面となります。このような場所を「氾濫源(はんらんげん)」とか「谷地(やち)」と呼びます。縄文時代の終わりには、このような広大な谷地と、東西8kmにもわたる沼が広がっていました。
その後、大きな変化が起きました。かつて北上川は佐沼から蕪栗沼を経由して篦岳山の北側を流れていました。これが1605年からはじまった仙台藩の改修工事で、迫川と北上川が分離されました。また北上川と迫川と江合川と飯野川を結んで、石巻へ流れるよう川の流れを変えたのです。理由は、船を使ってお米を海まで運び、そこから江戸(東京)へ出荷するためでした。仙台藩の財政のほとんどは、江戸へ売る米でまかなっていたそうです。最盛期には、江戸で消費する米の3分の2をこの地方から集めていたと伝えられています。
その結果、蕪栗沼に流れる水が少なくなり、少しずつ沼の面積が小さくなっていきました。また広がった谷地では新田開発が盛んに行われるようになりました(「田んぼはどうやってできたの」へつづく)。
田んぼはどうやってできたの
田んぼは沼を干拓して改造したものです
蕪栗沼の水位が下がると、周囲にヨシやマコモなどが生える谷地が広がっていきました。そこで住んでいる人たちは、江戸(東京)へ出荷する米を増やすために、新しい田んぼをたくさんつくりました。
あぜをつくって水をはるのはそれほど難しくありませんが、大雨が降るとすぐ蕪栗沼は増水し、氾濫して田んぼがだめになってしまいます。そこで田んぼを「堤防」で囲んで、洪水が起きても水が入ってこないようにしました。こうしてつくられた田んぼが、いまの土地改良区なのです。
沼だった場所が田んぼに変わった様子がよくわかる写真(「蕪栗沼は昔海だった?」の写真と比べてみよう)
田んぼがたくさんつくられ、沼はだんだん小さくなってきました。昭和初期になると「新迫川」がつくられ、さらに沼の水位が下がったため、「野谷地」「沼崎」「伸萠」「四分区」「白鳥」などの田んぼをつくることができました。こうして昭和初期に400haあった沼は、現在では150haになっています。
私たちを守る堤防や遊水地
どうしてみんなの家は山に建っているの?
蕪栗沼や旧迫川の流域の家は、みんな標高の高い丘陵地帯につくられています。これはどうしてなのでしょう?もっと便利な平地や田んぼや道路の近くに家をつくればいいのに、とか思いませんか?この謎を解く鍵は、蕪栗沼が昔海だったことです。
縄文時代:いまから6000年ほど前の蕪栗沼
昔は海だったこの辺りの平地は、いまでも標高が3メートルから5メートルほどしかありません。そのためこの地域は昔から度重なる洪水に襲われてきました。大雨が降ると周囲の山に降った雨が集まり、また北上川から水が逆流してきて、大きなみずたまりのような状態になってしまうのです。
弥生時代〜昭和までの蕪栗沼
とくに昭和22年と23年に戦後最悪の水害となった「カスリン・アイオン台風」が通過したときには、堤防が327カ所が壊れ、死者20名、行方不明者10名、水に沈んだ水田の面積は実に50,000ha(現在の蕪栗沼のおよそ333倍)にもおよんだと言われます(カスリン台風時)。昔の人はこれに気づき、丘の上に家をつくったり、米倉を建てたりして、平地には洪水の時を考えて田んぼしかつくらないようにしました。その後、蕪栗沼周辺は、昭和45年から平成13年までかけて、洪水の時に水をためる遊水地として整備されました。こうして私たちの家や暮らしを大雨や台風などの災害時の洪水から守ってくれているのです。
遊水地として整備された蕪栗沼:洪水から私たちの暮らしを守っている
川が増水し、遊水地に水がたまった状態の蕪栗沼(平成?年?月?日)
昔はどんな生きものがいたの?
タンチョウやカワウソなどが生きていました!
ニゴイ:縄文時代の昔から今もいる蕪栗沼を代表する魚です。
蕪栗沼にはなんと、昔タンチョウやカワウソなどがいたということが分かっています。どうしてこのようなことが分かったのでしょうか。それは縄文時代の貝塚を発掘したからです。貝塚とは、縄文時代の人のゴミ捨て場のような場所で、彼らが食べた食べ物の残りが、たくさん堆積しています。それを発掘することで、昔の人がどのような暮らしをしているのかを調べました(主に東北大や田尻町、南方町の教育委員会で行っています)。
鳥では、タンチョウの他、今と同じようにガンやハクチョウ、カモの仲間、サギやキジの仲間などがいたことが分かっています。哺乳類では、カワウソの他、いまではあまり見られないイノシシやノウサギ、テン、ニホンジカ、ツキノワグマ、ムササビなどがいたことも分かっています。また縄文時代の人は、シジミやイシガイ、ドブガイなども食べていたようです。
面白いのが魚です。今と同じようにニゴイやゼニタナゴ、ボラ、ウナギ、ギバチ、ドジョウなどがいたことも分かっていますが、ブリ、マアジ、サバ、マグロ、イワシの仲間、タイの仲間、サケ、フグ、サメ、エイなども見つかっています。いまでは蕪栗沼から海まで30km以上ありますが、当時は10kmほどしかなかったので、海から運んできたのではないかと考えられています。
また当時の人の暮らしはとても豊かだったと考えられています。遮光器土偶などの精巧な芸術品をつくる余裕があったことからもわかりますが、面白いのがイワシの話しです。貝塚を発掘すると春夏秋冬どこの層からもイワシがでてきます。イワシは普通秋の魚なので、春夏冬には捕れません。これは縄文時代の人が、すでにイワシなどの魚を薫製にしたりして保存する方法を知っていたことを示しています。
昔の蕪栗沼には、いまよりたくさんの生きものがいたようです。そこで縄文時代の人たちが豊かな食生活を送っていた様子が目に浮かぶようです。
今はどんな生きものがいるの?
現在までに約1300種類の生きものが確認されています。
これまでの蕪栗ぬまっこくらぶの調査で、蕪栗沼には実に1300種類以上の動植物がいることがわかっています。
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