
生きるってなんだろう・・・・。命はどうして失われるのだろう。シベリアのペクルニイで生まれたマガンのマルティス。次々に襲いかかる敵と戦いながら、傷つき、成長し、越冬地の日本を目指して旅を続けます。

この物語は、命の大切さについて考えるために書かれました。死が身近でなくなった現代社会では、簡単に命を捨てたり、奪ったりする事件が目につくようになっています。 野生生物の世界には、人間が忘れてしまった命の原点があります。人間と同じように家族をつくり、仲間と助け合って生きるマガンの物語を通じて、命の大切さを思い出して欲しいと思いました。
おかげさまで、発表と同時に多くの反響や応援のメッセージをいただきました。また、講演や発表でも、たくさんの方々と感動を共有することができました。どうもありがとうございます。

翼の折れたマルティスは、大崎管内の全小学校の図書館に寄贈しました。大崎市民図書館にもありますので、一般の方も読むことができます。
購入を希望される方には、1冊2000円(送料160円別・国内のみ)でお送りしております。メール送信フォームで、「蕪栗グッズ」を選択し、本の名前と冊数をメッセージ欄に記入して送信してください。郵便振替用紙を同封いたしますので、もよりの郵便局でお支払い願います。
 主人公マルティスは、マガンという雁の仲間で、繁殖地であるロシアのシベリアで生まれました。群れのリーダーである父親から生まれたわりには、体が小さく、のろまで弱虫で、いつも兄弟たちからいじめられています。仲間のマガンからは「こんな弱虫、生き残れるはずがない。はやく見捨ててしまえ。」と言われるほど。日本へ旅立つ日が近づくのに、いまだ飛ぶことも満足にできないマルティス。そんな中、マガンをおそうオジロワシが群れに近づいてきます。家族を守ることを誇りとするマガン一族、そのリーダーである父親はどうするのでしょうか。 マルティスは、次々と襲いかかる敵によって、仲間や家族を失っていきます。もう死んでしまいたい、生きていてもしかたがないと言うマルティスに、母親は「あなたの命は、あなただけのものではないのですよ。」と言います。マルティスは「命はどうして失われるのだろう、生きるってことにどんな意味があるのだろう。」という疑問を感じます。小さい子供にとっては、残酷な場面もあります。しかし、現実の世界では、この物語と同じように残酷な体験をしている子供たちが、たくさんいるのです。この物語には、父と子を失った私の個人的な経験が反映されています。 野生生物の世界には、人間とは生き方も家族のあり方も愛情の形も違った、さまざまな生き物が暮らしています。そこには人間が幸福に生きるためのヒントが隠されています。この物語を通じて、命の大切さや自然のすばらしさについて少しでも感じてもらえれば、幸いです。 できるだけ多くの方々に興味をもってもらいたいので、ここで第1話だけ紹介します。ふりがなもなく、ページもない文章は読みにくいですが、ご了承ください。
どこまでもつづく新緑の草原、大地に点々とつづく無限の湖、舞い歌う小鳥たち、青き美しき水鳥たちの故郷ペクルニイで、マルティスは生まれました。
マルティスの父親であるレカーは、優しく、勇敢で、行い正しく、群の誰からも尊敬されているオスのマガンです。ガン族には、ハクチョウの仲間もいれて約二十の種族があり、レカーはその中のマガン族の中でも、とくに高い地位にいました。
レカーは食べ物のたくさんある場所や、安全にすごせる場所を、よく知っていました。このため、たくさんのマガンがレカーを頼って後に従い、ついていきます。渡り鳥であるマガンは、冬になると、遠く南へ数千キロメートルも離れた日本まで、旅をしなければなりません。レカーはなんの目印もない海の上を、たくさんの家族や仲間をつれて、絶対に迷わずに飛ぶことができるのです。
それでもレカーは、尊大なふるまいをせず、仲間と対等につきあいました。そして何か危険があったときには群のみんなを守るのです。こうしてレカーは二十年もの長い間、群の中心的な地位にいたのでした。
ある夏、レカーはいつものように、ペクルニイにある名もない小さな湖のほとりで、巣の見張りをしていました。レカーの妻であるモイラは、湖のすぐ近くに巣をつくりました。こうすると外敵が来たとき、すぐ水の上に逃げられるからです。シベリアは、真夏でも夜には氷点下になるほど寒くなります。モイラは、卵を寒さから守るため、自分の胸に生えている羽毛(ダウン)を、くちばしで引き抜いて、巣の中に敷き詰めています。
モイラは九日かけて六個の卵を産みました。マガンは卵を産んでも、すぐにはあたためません。すべてのヒナが同じように成長するように、すべての卵がそろってから、あたためます。また一度卵をあたためはじめると、約二十五日は、休みなくあたためなくてはなりません。モイラは体力をたくわえるため、レカーに卵をまかせて食事にでかけました。
レカーは生まれたての卵を見て、とても満足で幸せな気分でした。マガンをはじめ、ガン族の鳥は、家族をとても大切にするのです。レカーはモイラと結婚してから、十四年間で八十羽の子供を育てました。そのうち大人になったのは五十一羽で、家族をつくっているのは十六羽、現在まで生き残っているのは二十一羽です。孫やひ孫も合わせると、二百羽近い子孫がいる大家族になります。それでも、新しい命が生まれるたびに、深い愛情を感じてしまうのでした。
卵をじっと見ていたレカーが、異変に気づきました。モイラが食事をしているはずの茂みから、マガンの警戒音が聞こえたのです。天敵にであったことを仲間に教える声でした。
「モイラ!。どうした!。」
すぐさまレカーは、モイラの声のところへ飛び立ちました。すると茂みのむこうから、モイラが声をたてて飛んできます。モイラは無事でした。飛んでくるレカーと合流したモイラが、叫びます。
「レカー、大変です。ホッキョクギツネのアイオンがおそってきました。これは・・・」
「しまった!、アイオンか。これはわなだ!。卵が危ない。」
レカーとモイラは、急いで巣に戻りました。
残念なことに、ときすでに遅く、卵がひとつだけなくなっていました。アイオンは、もともとモイラを捕まえるのではなく、卵が目的で襲ったふりをしたのでした。まんまとレカーは、おびき出されてしまったのです。モイラは、それを分かっていたので、急いでレカーの所へきたのですが、間に合いませんでした。モイラは、
「これは私の油断です。卵には悪いことをしました。」
といい、長い首を曲げて、頭をうなだれました。
レカーは、モイラを責めませんでした。
「アイオンめ、ますます知恵をつけたな。まったくやっかいな奴だ。」
レカーが言うと、湖の対岸の草むらがガサゴソゆれて、アイオンがひょっこり出てきました。
「アイオン!」
満腹になったアイオンは、レカーたちを襲う気がありません。レカーもまた、対岸にいるアイオンに手出しができないでいます。
「レカーのだんな。お久しぶりだね。今年も子供たちを、何羽かいただきにきやしたよ。へっへっへっ。」
モイラはとても嫌な顔をしました。レカーは「シュー」と息を吹いていかくします。
「でも、だんな。このアイオンのしわざで良かったと思ってるんじゃないすかねぇ。へっ。」
アイオンは、ジャンプをして満腹になった喜びを、表現しています。レカーはむっとして言いました。
「どういう意味だ。」
「ふん。近頃のキツネといやあ、馬鹿ばっかり。巣を見つけたら皆殺しにしちまう。そのへん俺様は、じっくりいただくから、大きくなったヒナで満腹になれるし、おまえらも子供が全滅することがないわけだ。俺様がこのへんで、なわばりを張ってるおかげで、馬鹿なキツネがこないんだから、少しは感謝されてもいいと思うんだがね。」
モイラは、あきれた顔をしました。レカーは不敵に笑いました。
「いつでもこい。またお前の顔に、傷をつくってやるぞ。」
アイオンの額には、レカーにつけられた傷があるのです。アイオンは「おおこわ。」と言って、去っていきました。
(腹立たしいが、あいつの言うことは正しい。)
レカーは、アイオンの言うことに一理あることが分かっていました。レカーも生きていかねばならず、アイオンも生きていかねばならないのです。互いに争わなければならないことを、二人は別に嘆いていません。去っていくときのアイオンの顔は、満腹でとても優しくなっていました。
モイラは、五つになってしまった巣の中の卵を見て、言いました。
「レカー、どうします?。卵が減ってしまいました」
マガンは、卵が天敵にうばわれると、足りなくなった分を産みなおすことがあるのです。しかし今は、他の五つの卵を産んでから、ずいぶん時間がたっていました。レカーは、悩みました。
「よし、モイラ。もう一つ卵を産もう。他の卵は、まだあたためていないし、まだ大丈夫だ。明日の朝、もう一つ産んでくれ。」
「わかりました。」
こうして次の朝、七つめの卵が産み落とされました。それが、マルティスの生まれる卵でした。
モイラが、卵をあたためはじめてから二十五日目の朝、卵の中から六羽のヒナが生まれてきました。マガンは、卵の中にいるときから、親子で会話をしています。いよいよ卵を割って、外に出てくるときは、モイラが、声で一所懸命にはげましました。
最初に生まれたのは、優等生のファティマでした。頭が良く、レカーやモイラが教えたことを、すぐ学びました。また兄弟の面倒をとても良くみます。
次に生まれたのは、体の大きなヒースでした。力が強く、ケンカなら誰にも負けません。飛ぶのも上手で、兄弟の中でいちばん早く飛行術を覚えました。
三番目に生まれたのは、いたずら好きのチャンタです。小柄ですばしっこく、誰よりも速く走れます。食べものを見つけるのが得意ですが、ときどき迷子になる困った子です。
四番目に生まれたのは、おしゃべりのクロディア。世話好きで、うわさ話がとっても好き。おいしい食べものや、その日の事件などを、他のマガンの家族からよく聞いてきます。
五番目に生まれたのは、美人でかわいいジェシカ。とてもきれい好きで、いつも羽毛の手入れをしています。いつもおすましですが、本当はとても優しい子です。
そして、最後に生まれたのがマルティスです。体が小さく、ぐずでのろまで、良いところはひとつもありません。何よりとても臆病で、怖いことがあると、すぐ動けなくなってしまいます。
それぞれ性格の違う六羽ですが、まだ生まれたばかり。しわしわの羽に、頭もなんだかグラグラして、頼りない感じです。でも母親であるモイラの顔を見て、しっかり覚えました。
「みんな、はじめまして。私があなたがたの母親であるモイラです。むこうにいるのが、父親のレカー。」
レカーは、うれしそうに胸を張りました。
「みんな、卵の中で、自分の名前は覚えましたね。」
「ハーイ。」
五羽のヒナが、そろって返事をしました。マルティスだけは、キョロキョロして困っています。マルティスに近づいたモイラは、言いました。
「マルティス。あなたの名前は、マルティスです。私たちの七番目の子供よ。」
マルティスは、まわりを見まわして、六羽しかヒナがいないことに気づきました。
「お母さん、僕、六番目じゃないの?。」
モイラは、首をふりました。
「六番目の子は、卵のときキツネに食べられて死にました。そのためにあなたが生まれてきたのです。マルティス、これは大事なことだから、しっかり覚えておくのです。」
マルティスは、まだ生まれたばかりだったので、モイラの言うことが良く分かりませんでした。
モイラは、子供たちの羽毛についているタンパク質のからを、自分の羽毛をこすりつけて取ってやりました。すると、しわしわだった子供たちは、あっという間に、かわいいフサフサのひよこに変身しました。それからしばらく、子供たちはモイラの胸の下で過ごしました。
マルティスたちが生まれてから、一週間がたちました。マルティスたち兄弟は、湖のほとりに生えているスゲや、飛んでくる蚊の仲間を食べて、すくすくと成長しました。マルティスは、いつも兄弟の一番後ろを、よちよちとついていきます。モイラは、危険がないときは、子供たちにまかせて、勝手に遊ばせています。
運動が得意なヒースと、動きの素早いチャンタが、池の中で水に潜る競争をしていました。マガンは危険な天敵がくると、水の中にもぐって逃げるのです。
水の中をのぞきこむマルティスのところに、ヒースが潜ったときの渦がやってきました。ファティマとジェシカは、ぼけっとしているマルティスを見て顔を見合わせます。
マルティスは、渦が自分のところにやってくるのを黙って見ていました。そして渦が体の下に入ると、くるくると回りだしておぼれてしまいます。
これを見てクロディアは思わず笑い出してしまいました。
「マルティス。あんたいくらなんでも、にぶすぎるんじゃない?。」
ジェシカは目を回しているマルティスを助けて、文句を言います。
「そんなこと言ってないで、助けなさいよ。」
水面に登ってきたチャンタは、
「のろまなマルティス。」
と言って、からかいました。ヒースもため息をついて、
「女に助けてもらうとは、なさけないやつ・・・」
と言いました。弱虫のマルティスは、たったそれだけのことを言われただけで、涙ぐんでしまいます。
チャンタが、にやりと笑いました。そして再び水の中に潜ります。
(?)
兄弟たちは、水の中をキョロキョロ探します。
「バシャバシャ」
すると、急に水しぶきが立って、マルティスが溺れはじめました。
「助けて!。おねえちゃん。」
ジェシカは眉をしかめて言います。
「はあ?。いったいどうしたら何でもないところで溺れるわけ?。」
不思議なことに、まだ潜れないはずのマルティスが、水の中に沈んでいきました。しばらくして、チャンタが水面にあらわれます。ジェシカは何があったか気づきました。
「チャンタ兄さん!。マルティスの足を引っ張ったわね。」
ジェシカが叫ぶと、チャンタはけらけらと笑って言います。
「だって、水に潜れなきゃ、敵が来たときに逃げられないだろ?。僕は親切でやってるのさ。」
ジェシカは急いで潜って、マルティスを助けに行きました。ファティマとヒースは、ため息をつきます。
「やれやれ、とんだ弟だな。」
とファティマは言います。
「足手まといにならないよう、少しきたえてやらなきゃいかんぜ。」
とヒースは言います。
チャンタはマルティスがどじをすると、いつも馬鹿にしたりこづいたりして、いじめました。ファティマとヒースは、マルティスに厳しくあたります。モイラはそんなときも、ただ黙って見ているだけでした。
マルティスを助けるのは、いつもジェシカでした。ジェシカは無愛想にしながら、しっかりマルティスの面倒をみます。クロディアは、そんなジェシカのおすましが、おかしくてたまらないのでした。
「ジェシカ、あんたは本当に優しいねえ。」
クロディアが言うと、
「そうよ。私はあんまり優しいんで、かわいそうなのがいると、放っておけないの。」
とツンツンすましているのですが、本当はとてもマルティスが好きなのでした。
やがていく日かが過ぎ、巣のある池のまわりは、食べものがほとんど食べ尽くされてしまいました。マガンは、子供が大きくなると、河口にある大きな湖まで、泳いだり歩いたりしていかなければなりません。まだ羽の生えそろっていない子供たちはもちろん、レカーもモイラも、この時期は羽の生えかわりのため、風切羽(かざきりばね)という飛ぶために大切な羽が、抜けてしまっているのです。ガン族は空から地上を見ただけで、どの道を歩けば目的地に着くのか分かる能力をもっています。しかし途中にはたくさんの天敵が待ちかまえているのです。
「みんな聞きなさい。これから大きな湖まで歩いて移動します。途中には危険がたくさんあります。あなたたちは私やレカーが見えるでしょうが、私たちからは草に隠れて見えません。決して離れないように。」
モイラが言うと、子供たちは勢いよく返事をしました。
レカーの合図で、大きな湖までの危険な旅がはじまりました。モイラを先頭に、ファティマ、ヒース、チャンタ、クロディア、ジェシカ、マルティスの順に並び、レカーが一番最後を守ります。
「どこかで、アイオンというキツネが隠れています。みんな気をつけなさい。」
子供たちはよちよち歩き出しました。道の途中には、最近は食べていない新鮮でおいしそうな草が、たくさん生えています。しかし安全な場所に着くまで、寄り道するわけにはいきません。子供たちは、生つばを飲み込んで我慢しました。いたずら好きのチャンタは、おいしそうな草に思わず目がいってしまいます。
「あー、あの草はとってもおいしそうだなぁ。あの草も。あの岸に生えているスゲは、僕の大好物だ。」
チャンタは、あちこち目が動いてしまいます。
三つめの川を越えて、四番目の湖についたとき、チャンタはとうとう我慢できなくて、群を離れてしまいました。
(ちょっと食べて、すぐついていけば大丈夫だろう。)
チャンタは、もう無意識で岸辺の草を食べはじめてしまいました。他の子供たちは、とっくに岸にあがったモイラを追って、急いで岸を登っています。モイラからは、背の高いスゲに隠れて子供たちが見えません。岸から少し離れたところで、声をかけました。
「私はここです。みんな、ついてきていますか?。」
「はーい、ここにいまーす。」
チャンタをのぞいた、五羽の声が聞こえました。モイラは、声でチャンタだけがついてきていないことが、ちゃんと分かりました。
「レカー。チャンタの声が聞こえないわ。」
「分かった。すぐ見てくる」
レカーは、きた道を引き返して、湖の方でチャンタを探しました。レカーが歩いていく姿が、モイラからは良く見えます。レカーはすぐ、チャンタを見つけました。
「こらっ、チャンタ!。なにやってんだ。」
レカーにしかられて、チャンタはびっくりして我に返りました。
「ごめんなさい、お父様。」
チャンタをしかる声が聞こえたので、モイラはほっとして子供たちを集めました。ところが、マルティスが姿を見せません。モイラは、はっとしました。
「マルティス、どこです。返事をしなさい。」
「お母さん?。どこ?。」
かなり遠くから、マルティスの声が聞こえてきました。
「マルティス!。そこでじっとしていなさい。今から行きます。」
突然、マルティスの声が、天敵とあったときの警戒音に変わりました。
「お母さん、助けて!。」
モイラは、マルティスの危機を悟りました。レカーがチャンタをつれて戻ってきます。
「レカー、子供たちを頼みます。マルティスが危ない。」
モイラは、まだ風切羽の生えそろっていない翼を、必死で羽ばたかせ、マルティスの方へ飛んで行きました。
マルティスの声がした茂みの中では、マルティスの右の翼にかみついたホッキョクギツネのアイオンが、マルティスの腹の上に足をのせてたっています。マルティスは、恐怖で全く動くことができません。マルティスは、まだ生きています。モイラは、戦うことを決意しました。
ガン族の翼には、骨が拳(こぶし)のように堅くなった部分があり、これを相手にたたきつけることで戦います。命中すれば、キツネとて無傷ではすみません。しかしキツネには、強力なキバとアゴがあり、戦うことは大きな賭でした。数秒のにらみ合いののち、モイラがアイオンに突進をはじめました。
すると、何を思ったのか、アイオンがマルティスを離し、後ろへするすると下がっていきます。
「おっと、モイラさんよ。今は本気でやり合う気は、ありませんぜ。」
モイラは、驚いて立ち止まりました。
「いったいどうしたことでしょう。キツネが獲物を返すなんて!。」
マルティスは、腰を抜かしたままでした。アイオンは答えます。
「なに、今は満腹なのさ。何しろお隣のブロニング夫妻の子供を、二羽もいただいたばかりなんでね。こんな腹のふくれているときに、手強いあんたと、やりあう気はねえよ。しかしこいつは、本当にあんたの子かい?。張り合いがねえなぁ。」
アイオンは、マルティスを見て、鼻で笑いました。モイラは聞きます。
「なんですって、ブロニング夫妻を、襲ったのですか?。」
「いやいや。夫妻には何もしてませんぜ。迷子になったんじゃないかね。子供だけでうろうろしていたところを、ごっそり。」
「そんなばかな。ブロニング夫妻が、子供を置いてどこかへ行ってしまうわけがありません。」
アイオンは少し考えているようでした。
「確かに、まあ俺様も変だとは思うけどね。」
モイラは、アイオンに殺気がないのを確かめてから、マルティスに近づいていきました。そして息を「シュー」と吐いて、アイオンを威嚇しました。
「私たちはすぐここを移動します。今度は油断しませんよ。あなたもすぐ立ち去りなさい。」
アイオンは、鼻をひくひくさせて周囲を警戒しました。
「俺様は、しばらく誰も襲う気はないがね。確かになんか妙な気配がしやがる。こいつは気をつけた方がいいぜ。」
モイラは、アイオンをみらみました。
「といっても、俺様があんたに言うのも、おかしな話か。」
そう言うと、アイオンはジャンプして、草の茂みの中に走っていきました。マルティスは、まだふるえが止まらなくて、立てないでいます。モイラは言いました。
「マルティス、立ちなさい。一刻もはやく、ここから去らなければなりません。レカーとあなたの兄弟が待っています。」
そして、マルティスを置いて、レカーのいる方へスタスタと歩いて行ってしまいました。マルティスは、あわてて飛び起きて、後を追いかけました。
河口の大きな湖に着く頃には、マルティスたちが生まれてから、一ヶ月がたっていました。途中では、他の三つの家族と合流しましたが、ブロニング夫妻は、やはりいませんでした。子供たちは、もう親と同じ体重になり、すっかりたくましくなっていました。羽づくろいや、伸びや羽ばたきの練習をして、翼の使い方を覚えます。まだ頭だけは、幼いヒナの形が残っていました。
やがて湖には、たくさんのマガンの家族が集まってきました。モイラは子供たちに号令をかけました。
「これから、飛ぶ練習をします。私の真似をして、ついてきなさい。」
マガンが飛び立つときには、まず翼と足をつかって、体を水面から浮かせます。次に、翼を羽ばたかせながら、足で水面をたたき、歩くように前に進みます。これが上手にできるようになったら、次は羽ばたきを強くして、足を水面から離すのです。こうしてだんだんと飛ぶ距離を長くして、スピードを速くします。上手になると、助走しなくても飛べるようになってきます。
モイラとレカーは、子供たちに飛行術の基礎を教えました。兄弟の中で、いちばん先に飛べるようになったのは、ヒースです。他のみんなが飛べるようになるころには、もう自在に曲芸飛行もできるようになっていました。
「ヒース、あなたは私が今まで育てた中でも、いちばん飛ぶのが上手です。素敵ですよ。」
モイラにほめられるヒースを見て、マルティスはとてもうらやましくなりました。マルティスは生まれてまだ一度も、ほめられたことがないのです。
自在に飛べるようになったら、次は隊列をつくる練習をします。ガン族の仲間は、飛ぶときに前の仲間のななめ後ろに並んで、カギ型やサオ型の隊列をつくります。斜めの隊列をつくることで、お互いにぶつからずに飛べるし、風の抵抗を少しでも減らすことができるからです。隊列は、いちばん後ろがリーダーで、天敵に襲われたときは、合図の声を出します。隊列は仲間を守るためでもあるのです。
マルティスは、なんとか飛べるようになったものの、すぐ怖くなって湖に降りてしまい、隊列に入れないのでした。
優等生のファティマは、他の家族の隊列を見て、風向きや高度によって、どのように角度や間隔を調整すればよいのか、研究していました。チャンタは、ヒースと競争したり、湖のあちこちを探検しておいしい草のありかを見つけたりしていました。クロディアは、ちまたのうわさ話をたくさん集めてきたし、ジェシカは、他の家族の男の子たちと、知り合いになるのに熱中していました。
マルティスだけは、いつまでも飛ぶ練習をして、失敗をくり返していました。
モイラは、胸騒ぎが止まりませんでした。それは、
「やはり、ブロニング夫妻は、いつまでも現れないわ。」
ということでした。何かがあったに違いありません。アイオンも知らないと言っていました。では何があったのでしょう。
その頃、ホッキョクギツネのアイオンは、まだレカーとモイラの巣の近くにいました。隠して少しずつ食べていたマガンの死体がとうとうなくなって、だんだんとお腹が減ってきました。アイオンはひとりごとを言いました。
「さて、そろそろ俺様も大きな湖へ行って、またマガンをごちそうになるか。あいつら、あと何日もすると、みんな南へ飛んでっちまうからな。」
そして、大きな湖へむけて、草原を走りはじめました。
すると、十三番目の湖のほとりで、草むらの中から、おいしそうなにおいがしてきます。
「くんくん。これは・・・。これは間違いなく、マガンの死体のにおいだ。こりゃついてるぞ。」
お腹がすいているアイオンは、必死でマガンの死体を探しました。そして茂みの中に倒れているブロニング夫妻を見つけたのです。賢いアイオンですが、お腹がすいていたところに思わぬ獲物をみつけたため、夢中になってしまいました。何も考えずに肉にかぶりつくアイオンの顔に、突然冷たい風が吹き抜けていきました。
「しまった!。俺としたことが!。」
アイオンの顔が青くなりました。空を見ると、巨大な黒い影が、うなりをあげて飛んできます。
「ぎゃあ!。」
アイオンが叫んだときは、もう手遅れでした。アイオンの目には、するどい爪がつきささり、首はがっちりとしめ上げられていました。骨の砕ける音がして、アイオンは、あっという間に息絶えてしまったのです。
マルティスが生まれてから、三ヶ月がたちました。空には風花が舞い、夜もはやくなってきています。風花は、遠くで降った雪が、風で運ばれてきたもので、冬の訪れを知らせるものなのです。
ペクルニイの大きな湖に集まっていたマガンの家族も、少しずつ南の中継地(渡りの途中で立ち寄る沼や湖)へ向けて旅立っていきました。マルティスは、まだ高く飛ぶのが怖くて、すぐ降りてしまうくせが直っていません。もう十分飛べるのに、恐怖に勝てないでいるのです。他の家族が、次々に南へ渡っていくのを横目に、マルティスはモイラやジェシカらと、練習を続けるのでした。
レカーは、上手に飛べるようになったファティマとチャンタをつれて、北の大地に偵察に行きました。雪の大地はすぐ近くまできていて、雪雲が空を暗くしていました。レカーは少し焦っていました。「あと二、三日で、ペクルニイは一面の雪で覆われてしまうだろう。」しかし、まだマルティスが飛べないのでした。
レカーは、ついでに巣の位置をファティマに教えようと、西の方へぐるっと迂回して飛びました。ファティマとチャンタは、一ヶ月かけて歩いて通ってきた道を、あっという間に飛び越えました。そして十三番目の湖で、大変なものを見つけたのです。
「なんてことだ!。」
それは、ホッキョクギツネのアイオンの死体でした。切り刻まれた体には、ほとんど毛皮しか残っていません。しかし額には、レカーが昔つけた傷が、はっきりと残っていました。
「あの、アイオンがやられるとは!。」
レカーは叫びました。アイオンの死体のまわりに、レカーも見覚えのある白い羽が落ちています。レカーのくちばしから血の気が失せて、ピンクから肌色に変わりました。
「お父様、どうしたのですか?。」
チャンタが心配そうにレカーの顔を見ます。ファティマは、レカーから学んだことから、何が起こったのかはっきり分かりました。同じように青い顔をしています。
レカーとファティマとチャンタは、できる限りの速度で大きな湖に戻り、モイラと子供たちのもとへ駆けつけました。レカーは、大声で家族を集めると、叫びました。
「今すぐ出発する。合図とともに、飛び立つように。」
マルティスは、びっくりして飛び上がりました。まだ満足に飛び続けることができないのです。モイラはレカーを止めました。
「子供たちは、まだ満足に飛べません。あと二、三日待てませんか?。」
モイラは、あえて「マルティスが・・・」とは言いませんでしたが、子供たちは、みんな分かっていました。レカーは言いました。
「一刻を争うのだ。雪とかじゃない。もっと大きな危険が近づいているのだ。」
モイラはヒースと顔を見合わせました。てっきり雪雲が近づいているのだと思っていたのです。ファティマが叫びました。
「レムスだよ。お父様、そうなんでしょう。さっき十三番目の湖で、アイオンがやられて死んでるのを見つけたんだ。」
「なんですって!。」
モイラは、愕然としてレカーを見つめました。レカーはうなずきます。
「そうだ。我々マガン族の肉をねらう、最も恐ろしい天敵、はぐれオジロワシのレムスがこの近くにいる。アイオンの死体のそばに、白い尾羽が残っていた。アイオンも、そして恐らくブロニングの家族も、レムスにやられたのだろう。我々はすぐ出発して、ここから逃げなければならない。」
レカーの話は、最後まで湖に残っていた他のマガンの家族たちにもすぐ伝わりました。みんなが、経験豊富なレカーのもとに集まってきます。モイラは、子供たちを見ました。マルティスだけでなく、クロディアもジェシカも恐怖で震えていました。モイラは、西の空を見上げていました。もう太陽は沈みかけ、東の空から夜の闇が近づいています。モイラは言いました。
「レカー、私も家族全員のためには、今すぐ出発すべきだと思います。しかし、今出発すれば、すぐに暗くなって方向を見失ってしまいます。恐らく、ここに残っているマガンの半数は生き残れないでしょう。明日の朝、もしレムスに襲われても死ぬのは一羽です。私は、群のために、明日朝まで待つ方が、よいと思います。」
確かに、経験豊富なレカーであれば、暗闇の中を月明かりをたよりに、次の中継地までたどり着くことができるでしょう。しかしそれでは、他の家族を見捨てることになってしまいます。レカーには、マガン族の一員としての責任があるのです。
マガンの群の誰もが、レカーを見ました。みんなが訴えるような目をしています。レカーは落ち着きを取り戻して言いました。
「モイラの言うとおりだ。明日の朝、早くに全員で出発する。今夜は交代で見張りをするから、そのつもりでいるように。」
レカーは目を閉じました。
「お母様!。」
ジェシカが、モイラに詰め寄りました。ジェシカには分かっていたのです。明日、犠牲になるとすれば誰なのか。それはマルティスに違いありません。
モイラは、恐ろしい目でジェシカをにらみました。そのためジェシカは、それ以上なにも言えませんでした。ジェシカはマルティスを見ましたが、マルティスは何も事情が分からず、ただ、まだ見たことのないオジロワシが恐ろしくて震えているだけでした。
その夜、マガンの親たちは一睡もせずに見張りをしていました。空高く金星がのぼり、だんだんと東の空が白く輝いてきました。レカーは他の親たちとうなずきあって、子供たちを起こしました。
レカーは、激しく首を振って、飛たちの合図を送ります。レカーの合図に答えて、マガンの家族たちは、次々と隊列をつくって飛び立って行きます。最後に、レカーは自分の家族に合図を送りました。
「いくぞ!。」
モイラを先頭に、ファティマ、チャンタ、ヒース、クロディア、ジェシカ、マルティス、レカーの順に並びます。マルティスも夢中で翼をはばたかせました。ところが、ほっとして目を開けると、下には漆黒の海が広がっています。必死だったマルティスに、忘れていた恐怖がよみがえりました。
「落ちる。助けて。」
目をつぶってしまったマルティスは、隊列を離れて、とんでもない方向へ落ちていきます。
「あわてるな!。隊列に戻れ。」
マルティスには、レカーの声が聞こえませんでした。ぐるぐると旋回したまま落ちて、とうとうもとの湖に落っこちてしまったのです。暗闇の中に、大きな水音が響きました。
金星の近くに、二つの星が現れました。星は流れ星となって、マルティスのいる湖に落ちていきます。レカーのわきを、ものすごい音を立てて黒い影が通り過ぎました。
「レムス!。」
二つの星は、オジロワシの黄色い目だったのです。レムスは、マガンの飛び立ちを上空で待っていたのでした。オジロワシは、群からはぐれたマガンを見逃しません。太い二本の足と、かぎ爪を前につき出し、マルティスめがけて急降下していきます。
「マルティス!。」
レカーは叫びました。マルティスは、間一髪のところで、水の中にもぐって逃げました。レムスの爪が、マルティスをかすります。右の翼に熱い痛みが走りました。
レカーは、翼をたたんで、落ちるよりも速い速度で急降下していきます。再び上昇してねらいを定めるレムスを追い越し、あっという間にレムスとマルティスの間に来ました。
「む!。」
レムスは迷いました。しかし狩りをする生き物の本能から、水面でじっとしているマルティスより、動いているレカーの方を追うように体が動いてしまいます。舌打ちしたレムスは、草むらに降りたレカーを追って、飛び込んでいきました。
バサバサっと、激しく二羽が争う音がしました。やがて、静かになったと思うと、傷を負ったレムスが、よたよたと飛び去って逃げていきます。
「やった!。」
「さすが、お父様!。」
子供たちから、歓声があがります。
ところが。
モイラは、はしゃぐ子供たちを置いて、レカーのもとへ急降下していきました。びっくりした子供たちは、あわてて後を追います。マルティスも、岸に上がって、レカーの方へ歩いていきました。
「レカー・・・。」
モイラは、絶句しました。レカーは、体のあちこちから血を流し、骨は砕かれ、肺や口からも血を流し、ほとんど息絶えようとしていたのです。マルティスは、震えが止まりませんでした。
クロディアとジェシカは、絶叫して涙を流し続けています。ヒースとチャンタは、
「お前のせいだ。」
と、泣きながらマルティスをこづいていました。
モイラは、十四年間も一緒に連れそってきたレカーを、涙も流さず、ただじっと見つめていました。レカーはもう、一言も口をきくことができません。モイラは空を見上げました。風花がだんだんと大きくなり、吹雪になってきました。レカーの上にも、少しずつ雪が積もりはじめます。モイラは、そっと目を閉じて、言いました。
「子供たち!、出発の準備をなさい。レカーはもう駄目です。ここへ置いていきます。」
子供たちは、仰天しました。誰もが、信じられない、という顔になりました。マルティスは、ショックであぜんとしています。
「お父様を置いていくなんて、嫌よ!。」
ジェシカが、叫びました。しかしモイラは黙って首を振ります。
「レムスは、恐らくすぐにでも戻ってくるでしょう。レカーを食べれば、そのあとしばらくは我々を追うのをやめるはずです。私たち家族のために、レカーには犠牲になってもらいます。」
ジェシカは、モイラの言葉を聞いて、気が遠くなりました。他の子供たちも、顔を見合わせます。
チャンタが、マルティスに言いました。
「お前が、ここに残れ。」
「そうだ。お父様のケガが治るまで、お前がここでお父様を守っていろ。お前のせいで、こんなことになったんだ。」
ヒースも、マルティスを責めました。しかしモイラは、
「いいえ、マルティス。あなたも私たちと来るのです。」
と厳しい声で言いました。
ファティマが震えながら、モイラに近づきます。そして小声でそっと
「お母様。マルティスはさっきの攻撃で翼を痛めています。大丈夫でしょうか?。」
と言いました。モイラはそれについて、何か考えがあるようです。モイラは、子供たち全員に向き直って、言いました。
「いいですか。家族を守ることは、我々ガン族の誇りなのです。レカーがしたことを、あなた方は見たはずです。我々も、マルティスを守って南へ向かいます!。」
モイラは、マルティスに近づいて言いました。
「マルティス。あなたはレカーの代わりに、隊列の最後尾につきなさい。一番後ろは、リーダーの位置です。一番危険な場所であるとともに、家族全員の安全に責任を持たなければなりません。しっかりつとめなさい。」
モイラはそう言うと、出発の合図を送りました。そして一度も振り返らずに、南へ向かって飛び始めました。マルティスたち兄弟も、涙を振り払ってモイラについていきます。
マルティスは、もう震えていませんでした。そして一度だけ、後ろを振り返りました。残されたレカーの体には雪が降り積もり、だんだんと見えなくなっていました。 |