フランスの社交と法

法というのは、ひとえに文化の集積であると言うことが言えると思う。法は社会制度として機能するが社会に於いて十分に成熟した文化的バックアップがなければ機能は成立し得ないし、そもそも制度が機能すると言うことはその制度に対する社会的協賛がなければ成立し得ない。是は近代社会以前の専制下においても同じである。専制君主は必ずしも絶対的な優位いつの決定権者ではなく政治環境という名のプレッシャー、一定の枠組みを定めていた事実がある。すなわち、社会は制度に規定されるのと社会が制度を規定するのはコインの裏と表の関係にあるのである。故に社会的同意(認証)が得られない制度は制度としては死んでいるのであり制度の枠組みを形式的に利用した制度外の目的講師に対して活用されるというような濫用の憂き目にあるか、さもなくば制度としての機能を停止するのである。日本国に於いてこのことが言える青銅は多くあるだろうが、特に指摘すべきは制定後100年を経て尚活用されることの少なかった信託法ではないだろうか。信託概念が社会的に認識されない、もしくは信託手利き機能が従来から別の制度によって行われてきたイテも社会が新たな制度を何らかの理由で嫌うことによっても制度は機能を停止せざるを得なくなるのである。

すなわち、法が機能するところには文化的背景が必ず存在している。その背景を持たない制度はその活力を自ずから失うのである。

本書に於いてはフランスにおける文化がエッセイ風に読みやすく表現され、フランス市民の市民生活の中野制度としてのフランス法上の制度が解説される。フランス財産法上における賃貸契約とパリにおける生活実態からの考察の紹介やフランス法における大革命児に制定された団体禁止の制度から、市民生活のための団体の構成するための法技術であるアソシアシオンの解説など生活に密着した法制度というまさに法文化、法は文化であり、観念的な制度設計ではないことが明らかになると思う。

観念的試行は対象を抽象化することで一般的妥当解答を導こうとするが、それは所詮は想定されたモデルの行きを脱することは出来ず、従ってこのような観念論に支配された立法政策は自ずと経年劣化に耐えることは出来ない。そして又法解釈として立法者意思の村長などと言うことも出発点に於いて既に会年的である以上、立法趣旨のなのもtににおける恣意的解釈を回避し得ることは出来ず、そもそも原理的に行って解釈という作業自体が解釈者の想定された不在の第三者に対しての解答という形で行われる以上、観念の中に閉じこめられたママなのである。そのような解釈では、真に人間生活を見据えた制度運用などは決して行うことは出来ないのである。このような制度運用の社会は人間不在の人間社会でありその子にあるのは代償の歯車の一握りの支配者のみである。