学校のユートピア

本書では社会的装置としての学校教育の役割が明らかにされている。

私の問題意識として、近時の教育論ではいわゆる「ゆとり教育」から「実力主義教育」という風な急激な転換があったと思う。これは経済的情勢というか社会の風潮に大きく依っていたように思う。しかしながらこの二つは同じ問題意識の上にあり、非常に類似している。バブル崩壊の前後に於いては官僚政治が非常に問題視され、ここからいわゆるエリートシステム自体への批判が巻き起こった。その当初の批判としては、人間性がないとか実社会には馴染まない架空の世界の住人であるとか、つまりは、為政者と被支配者のギャップを強調する論調が目立ち、「主婦感覚」という言葉が政治上にでたのもこのころである。おそらくは是がいわゆるところの「ゆとり教育」の直接のきっかけのように思える。しかしながら、不況が長引いていくにしたがい、雇用が流動化していくと実力主義が唱えられるようになってくる。実力主義に呼応する形で出てきたのが実力を養う教育という考え方である。この二つの考え方、「ゆとり」と「実力」は、従来の教育に対する否定ということで一致していると考えられる。つまりは、従来行われていた教育では臨むような人材が育成されないという認識では一致している。しかしながらその方向性が異なっている。「ゆとり」は、人間性や情緒、感覚といったものを、「実力」では処理能力や実績を残す可能性をそれぞれ重視している。しかしながらこの二つはそのやり方に於いて同じである。それは評価基準の設定、カリキュラムにおける実践性という二つのやり方として共通して現れている。まず、「ゆとり」においても「実力」においても評価基準を設定し、それに対する到達度を判定し教育の成功不成功を図る。「ゆとり」においてはそれが抽象的な評価、緩和された評価として、「実力」では、具体的な評価、厳格化された評価として設定される。次に実践性という意味でも、これは体験学習や応用問題、総合学習というような形で、幾つかの要素を複合的に教育するというやり方である。

「学校のユートピア」において、教育の目的は経済活動に規定され、学校教育自体の自立的な自身の変化は不能であるとされ、社会自体の変化がそれには必要だとされる。

生物はその個体数を増やすときに自己のコピーを作る。雌雄が別れている生物に於いてもやはり同じで自己からかけ離れた個体を生み出すことはない。私は是が伝統や生まれ持っての保守的傾向、大衆へ変化を嫌うなどの言葉に表れる安定性への安住戦略(ESS)であると考えている。自己が今日まで生き残ってきた戦略は少なからずとも将来に於いても通用する可能性が高いという確立論的な物であるが、しかし、人間の教育というものに於いても同じであろう。教育に於いては自己のコピーを作ろうとするものではないだろうか、是は古くは世襲制度であり、徒弟制度である。しかしながら、近代革命によってすべて人間は共同体を追われ、裸で原野に放り出されたとしたら、そして、社会契約というフィクションの基にスタートがすべて皆平等であり、帰属ではなくて業績によって評価されるという信仰を持つ、新たな大きな一つのみの共同体を作り出したとしたら、教育は当然として、その狭義の強化方向に従事せざるえないのは、ここまで述べてきたと売りの論理である。ESSとしての教育は、群れ、一つの大きな家を維持するための道具としての教育として国家という群体動物の器官の一部になったのではないか。

個人主義というスローガンの下に本当に個人主義が成立するのか、そもそも依存関係の中にこそ生存する人間が個人主義を遂行できるのか、またも試走したときに何が人類社会を覆うのか、本質的に人類すべての一人一人の自立を達成することをあくまでスローガンとする、理想とするに於いてそれが誠実に理想とされているのか。

十分に教育されていると言うことが、必ずしも人間を自由にはしないということであるしかしながら、必ずしも人間は自由に至上の価値を於いているわけでなく、その結果が現状ではないだろうか。このとき自由こそ市場であると声を荒らげるか、自由が至上価値ではなく価値の並立多様のなかに自由を隠してしまうか、それとも全く別のアプローチを模索するかではないだろうか。