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「表現の自由」を求めて

人権というものがいったい何なのかを、この憲法論への意識が希薄化してしまっている時代に於いて、考える上で非常に得るものが大きかった。

「権利のインフレーション」という考え方がある。権利が社会に氾濫したあげくその権利の権利たる所以が揺らぎ権利そのものの価値が消失してしまうのではないかという危惧を表す言葉である。私は、現代が実にその危惧のまっただ中にあると思う。それは言葉が非常に軽く扱われている現代に於いて必然であるとも思う。

我々は、何のために権利が存在しているのかということを真剣に考えることがあるだろうか?それは法学徒にこそ、そして社会を構成するすべての人に言える。理論を形式的にしか用いなくなっている。少なくともそのような現象が多い。言葉尻だけを捉えて軽々しく用語を弄するばかりで、実体的解決を図ることが出来ないでいる。これは非常に抽象的なレベルで今表現しているが、ごくありふれた風景である。

すなわち、自由を拡大していった結果としてその弊害という者が叫ばれるようになった。そしてそれを規制するという理由によって今までの対立軸がテクストをそのままにずれてしまった感がある。つまり、国家対私人で有効とされたテクストをそのまま私人間にまた私人間において有効とされたテクストを国家対私人において持ち込むと言ったことである。現代では国家と言うよりは、広く力ある団体といった方がより適当かもしれない。安易に結社に対して自由を与えてしまうことが果たして現代社会に於いて有益なことであるのか今一度考察を要すると思う。

今一度、原点に立ち返り、自らにかすべきものは何であるか、必要としていることの正体を見極めねばならないのではないだろうか。

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