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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー 

大塚久久雄訳 岩波文庫

本書は、資本主義社会の発生・発展において、結果的に生じた余剰生産が重要な意味を持つという提案に対して、そもそも余剰生産が生じうるのは何故かと言うことを社会における人間行動を倫理という側面から分析することによってあぶり出しを行っている。

余剰生産の発生について、技術革新のみによる説明がよくなされるが、そもそも余剰生産物というが生じると言うことはどういう事なのかという根本的な説明は余り無い。つまり、余剰生産物が生じたという事象を結果的に捉えて技術革新があったからだと事前の事象と関連づけているだけともいえる。豊作の年がとても長く続いたとかではいけないのか。技術が向上したら生産物が増えるのは確かであろうが、増えたからといって、すべてその増えた部分が余剰分となりうるのだろうか。増えてしまった部分を、素イベ手消費しうることも可能なわけであるし、交換するにはそれなりの動機を要するが、そのような動機が生じる原因として、交換による価値の上昇が言われる。しかしながら、交換によって価値が創造されるというのはこう感じたいがある程度軌道に乗っている状況によって初めて生じるのであり、原始的交換経済からそこまで導きうるのか。

本書によって、ある一定の別の側面からのこれらの疑問に対する答えが導かれると思う。つまりは、余剰生産物が生じるのは、倹約態度によるということが私が本書から考えを巡らしたことである。

本書に於いて、著者は「天職概念」、具体的には、それまで欧州の人々が生活の範としてきたのは聖書であり、その中の生活モデルは家産的製品モデルである。その日の内に食べるものはすべて食べてしまい、命をつなぐに必要最低限を自給自足せよというスタイルに求めれられる。是は社会が進展する内に、修道院という形で世俗分離され聖の側には可能であるが世俗にある限りは不可能とさた。(故に免罪というシステムが成立する契機にもなった。と思う)しかしながら、宗教革命以後、特にカルヴィニストにおいては、このモデルの転換を予定説(つまりあらが締め救済される者は決定している)という狭義の導入により、世俗分離を解消し、世俗に於いてもその与えられた天分を全うせよというモデルに変更された。これが禁欲主義というかたちで、ピューリタニズムに導入されて、倹約であれという資本主義をもっともよく運用している人々に共通的にみられる行動範、すんわち倫理となったとしている。

このように、歴史の事実を要素として、連続性あるものとしてモデルに当てはめる理解方法ではなく実質的にその事象の背後関係を丁寧に洗い出すという態度は、社会に於いてその構造を理解する上で非常に重要でり、説得力を持っている。確かに概念的に整理し談じてしまうことは一見すると非常に形式的優美さを持っているが、それ故に形式にとらわれすぎてしまうということも十分にあり得ることだ。だが、法によって律される社会というものを想定したときに、重要なのは実質生ではないだろうか。そして、実質を十分によく分析している理論は美しい実質を備えているかもしれない。

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