日本社会における西洋社会モデルの挫折は日本社会が西洋社会においてよりもより倫理の介入する場面が大いいことに一つの因をも利己とができると思う(これは倫理という言葉の捉え方によるが、西洋社会においての倫理が、自己の利益追求であるとすればそれはそれで倫理に介入されていると言えるが)。より正しい言い方をするなら、倫理の機能が異なっているのではないかと言うことになる。

西洋社会において、倫理、特に行動規範としてのそれは、キリスト教に基づいて規定される。つまり、倫理の源泉としての聖書の位置とその解釈による倫理の変遷である。マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で指摘したように、プロテスタンティズム倫理においては、まさに、アダム・スミスの言う「Invisible hand」が整合する。

つまり、社会を構成する個人ひとりひとりにおいても予定「ディスティン」により、暗黙のうちに規律され、個人の励みにこそ最終的調和への道があると説かれていることによって人々は封建時代に負っていた社会階層に対する責任(つまり、かつての支配倫理)から解放され、個人の思想・意思を行動の前提としえたのである(社会に対して無責任となり、調和は「予定」に委ねられていたのであるから)。

比して、日本においては「徳」概念にみられるように各々の責任は各々に課せられているがその責任を果たすに当たっては社会が介在するという西洋とは全く異なる倫理構造をとっている。

つまりプロテスタンティズム倫理においては、社会自体がその意識の外部へと「予定」の援用によって追いやられているのに対して、日本の倫理においては、「個人に対する社会」として2つの要素が相対化されながらも一体としてとらえられている。つまり「言え」としての社旗であり、社会益=公共益=個人にも及ぶ利益として「徳」が位置しているのである。故に、西欧モデル適用に対して困難が生じうる。このように考えていくと、OJTについても日本においては会社=ミニ社会=家族、と捉えた上で、その正成員として社会が教育する必要があるという意識が、OJTによる生産能力向上へのインセンティブに前置されているのではないだろうか?

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