スチュアート・カウフマンは、その著著「Investigation」の中において、「仮定的な科学として」秩序の存在を提示している。秩序が存在し、その秩序の振る舞いは、またその秩序に従っている。

法学部で果は法律から法を学んでいるが、それでも、この法というものが、いかにしてなぜ出現したか、社会というものがどうしてできあがったのかと言うことを考えることがある。

ローマ人たちが現在の法の基礎を気づいたとされている。そして、彼らローマ人たちはギリシア人に範をとった。ギリシア人は民主制を生み出した。ギリシアにおいて政治が生まれたのだ。

ギリシアのシステムは各々意見ある者が広場で演説し、自己の主張を示す。このときどんな論拠であってもかまわない。そして、多数が同調した者が採用され、皆これに責任を負わない。もし、責任が有れば、誰も恐怖して政治が機能しなくなることは目に見えているからだ。

そして、法とは、ギリシアにおける多数決による価値決定のみを取り出したものだと言える。いちいち議論するまでもなく結論が定めてあること、これが法である。

では、一体これが、いわゆる進化論的に原始(単純)から現在(複雑)への進歩として説明できるか?(もっともなぜ進むことがより複雑かす津湖とか進歩であるのか判然としないが、これはそのような価値観を設定しているからである故であることはここでは細かく追求しない)。

ギリシアから議論が面倒だからといってローマで法が生じたと説明できるのか?

ここにはあたかも予めからそのようにシステムが完成したままに出現したかのようにみることができる。

そして、この特殊地域的時代的な文化である法がかくも世界に浸透していることも、そして、この法というものが他のところで生じたように見えないこともそして法を備えているとするところでさえも、果たして、法が本当にあるのかひどく怪しいことがままあると言うことも同じく不思議に思えてならない。

スチュアート・カウフマンのアイデア、そして、スピノザがその著書「エチカ」の中で示した「存在」について一般的には主知主義と呼ばれることがあるが、現代において人間が「分析」によって「解き明かした」とするところのものは一体、何であるかを、彼らは「説明」できているのか?DNAの解析により生命は化学反応であると断じることはできても、では、なぜにそのような「化学反応」が存在し、そしてどうして存在し得るのかと言うことに対しては主知主義のアプローチの方が優位であるように考えられるのは、主知主義がカウフマンの言うところの秩序が分解されたピースをつなぐ役目を担っているからであり、単に分析し、分解し、過程を捉えただけでは、そこに本来あった脈絡が抜けてしまっているということに気がついているからではないだろうか?

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