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首相公選制と日本国憲法の採用する体制について

1章 首相公選制について

1節 首相公選制の仕組みについて

レーヴェンシュタインは、統治の対応について5つの分類を示している。第1に直接民主制、第2に国民公会制、第3に議院内閣制、第4に大統領制、第5に執政府制である。

首相公選制は、現行憲法上衆議院による首班指名により選任される内閣総理大臣を、衆議院首班指名に代えて国民投票とする制度である。レーベンシュタインの示した分類に当てはまらない新しいタイプの統治形態であるのであろうか。まず、この首相公選制について明らかにする必要があると思われる。

首相公選制という制度がどういった制度であるかについては、論者によってかなり差がある。首相公選制の基本的構造としては、首相をとにもかくにも公選するという点以外にはないといっていいと思う。首相公選制における最大の問題点は、議会と公選首相との関係をいかに調整するかである。すなわち、公選首相が議会に対して対議会責任を負うのか、議会解散権を持つのか、首相は独任機関の地位になるのか、逆に議会は公選首相に対して不信任案を可決できるのかという点である。

2節 2つの首相公選制

上述の点について、議会と公選首相を切り離して(相互不可侵的に)設計した場合、首相公選制はより大統領制に近い制度(対立型)になり、大統領を首相と言い換えるにすぎなくなる。また逆に、議会と公選首相を近づけて(親和的に)設計した場合、首相公選制は議院内閣制により近い制度(協調型)になり公選する意味が失われる。

斯様に幅のある制度であるため、議論する際の標準をどこに求めるべきか、大統領制風首相公選制、議院内閣制風首相公選制どちらをとるべきか、さらには首相と議会の関係を論じる上では、議会の選出方法、比例代表制か小選挙区制か、政党構成が二大政党制か多党制かによっても前提とされる首相と議会の力関係が異なってくるため、ある議会および政党条件では安定した設計となっても、条件が変われば極端に不安定となることもあり得る。たとえば、投票規律の厳格な政党による二大政党制下において大統領制風に設計するならば、政党とは逆の首相を選択するスプリット・チケット投票行動問題(注)や、議会と首相が厳しく対立するデットロック問題(注)についての対応が迫られるであろう。

また、どちらの設計方針を採用したとしても、公選首相と議会という二重の権威(注)が現行憲法上与える問題は多く、端的には41条を改正する必要があるのか、また74条の意味について、これが米国大統領制の拒否権を規定するものとなるのかなど様々な問題が潜んでいる。

さらに、議院内閣制において内閣は合議機関として機能するが、首相公選制の場合、首相は独任機関になるのか、なおも合議機関となるのか不明である。

議院内閣制において内閣が合議制であるのは、そもそも議会多数派がその政策を実行するために自派のメンバーから担当者たちを選出するのであって、その基礎を多数派というグループにおく。また本来的に議院内閣制は王政の元においての宰相から発達したとみれば、宰相および各大臣の円卓会議により国王に進言する形から、国王からその地位が主張に移り首相が大臣を統率するがその性格は合議制のままであるともいえる。現行の日本国憲法においては65条,66条,68条,74条により行政権が内閣に帰属し、内閣は過半数が国会議員により構成され、対議会責任も内閣が負うという構成、および内閣法4条から合議機関であるといえる。

首相公選制がこの点についてどのように設計するかであるが、大統領制風に設計すれば、独任機関となるだろうし、議院内閣制風に設計すれば合議機関となるだろう。

大統領制風に設計すれば前述の問題が生じるし、議院内閣制風に設計すれば、議会と内閣の一体性がより高くなり、首相公選制の提唱者の言うような効果が望み薄になるだろう。

2章 首相公選制の必要性・妥当性

1節 首相公選制の意義・目的について

この制度を導入する意味として主張されるのは、直接民主制を行政庁の首班に及ぼすことにより、その正当性の強化と、行政国家現象が進むのに対して民主的コントロールを徹底するといったところに求められる。

首相公選制というアイデア自体が広く世に問われたのは、衆議院議員であった中曽根康弘氏らによって提起されたもので、近時に至っては小泉純一郎首相が憲法改正議論と絡んで統治機構の再編として会見で語ったものがある。

しかしながら、首相公選制の定義自体が「首相を公選によって選出する」という点以外には不明瞭な点が多く、制度設計には論者によってかなり幅がある。たとえば、前述した中曽根の首相公選制はかなり大統領制に近いものであり大幅な改正を要求すると理解されているし、首相の発言については、67条に関する若干の法改正もしくは、67条のみの改正により実現すると考えているといわれる(注)。

2節 首相公選制を支持する意見について

前述の通り首相公選制の実現方法については、現行の制度自体を温存したままとするものから現行の制度からの決別を標榜するものまであるが、首相公選制の必要性についてはほぼ主張が一致している。それは、1民主主義の徹底、2執行権の安定強化自立化、3国民統合の政治的権威の創出の3点である。1の主張については、公選という手段は直接民主的でより国民の意見を集約するというものである(注)。2の主張は、政党政治により政党内の力関係が優先され、政党、政党内の派閥によって議会も行政も支配されていることを打破する必要があるとする(注)。3の主張は、国民投票という形で国民に直接政治的決断を迫ることによって民主主義を活性化させるというものである(注)。

これらの主張を共通して支えるのが、公選という手続きであるとされる。つまり、主張3において端的にみられるが、現行の制度においては国民の意思が国政に反映されていないので、国民の意にかなう強力なカリスマをリーダーとして国政に直接送り込んでしまおうという発想である。これは、国民が望む人物が直接統治をする、王政の多数決化といえるアイデアであるといえよう。そして、このとき国民の意思の内容は、多数ひしめく利害関係の強調たるコンセンサスデモクラシーではなく、多数勢力がすべてを決する多数決デモクラシーが採用されているといえる。

以下においては、公選という手続きによって得られた首相が1から3の主張を実現しうるかについて考察したい。

3節 民主主義が徹底されるか

議院内閣制よりも首相公選制がより民主的であるとする理論的背景としては、間接民主制よりも直接民主制がよりよいとする考えにあると考えられる。つまり、国民に直接選択されたものの方が、より権力正当性をもつという考えであり、国民主権論におけるプープル主権論により近いといえる。さらにこのように考えるのは、より人数が多いほど正しい選択を得られるという考え方がある。

(比較不能な価値の迷路)。すなわち多数決デモクラシーである。

この主張の背景として現行制度、中曽根が主張したときは中選挙区制度、現在では比例代表並立制によって構築される議会が、国民の意見を反映していないという認識がある、つまり、議会を否定しているといえるであろう。彼らの言うところであれば、議会の運営において投票規律の比較的堅牢な政党によってなされているがゆえに、政党内における政争によって、また、特定の利益集団の代表と国会議員がなってしまっているため(注)に

彼らからなる内閣もまた混乱し、民意がゆがめられるという現行の政治状況の分析結果に求められている。よって、政党内部の力関係などを一足飛びに国民の相違を背景とした国民だ表としての政治リーダーを創出する必要があるとするのである。この点の主張は執行権の安定化という彼らの主張とオーバーラップする点が多いがその点については次節に述べる。

首相公選制肯定派は、首相が民意を反映しない議会によって拘束されることで執行権が民主主義から離れているのであるから、直接執行権の長を民主的に選択する必要がある(いわゆる「恋人と首相は自分で選ぶ」というスローガン)とする。しかしながら、首相公選制はこの問題を解決し得ない。

第1に、首相を公選したとしても、それは直接民主制ではない。直接民主制は国民が直接に政治を行うことであり、すべてが国民の全員投票によって解決される議会のシステムである。首相公選は、あくまでも執行権の代理執行者を選ぶだけなので、直接民主制ではない。

第2に、公選首相の民主的正当性が議会に勝るというならば、首相の対議会責任をいかに設計するかが重要となる。首相を無答責であるとすれば、国民が直接首相を罷免できる機能がなければならないだろう。なぜならば、議院内閣制においては議会が内閣をコントロールしていたのであって、そのコントロールから首相を解き放つのであるから、代田の民主的なコントロール方法を要求しなければならない。

第3に、イギリスのバジョットは1867年に著したイギリス憲政論(中公バックス、小松春雄 訳、1980)のなかで、議院内閣制と大統領制の違いについて、大統領制(米国の制度を念頭に置いて)は、国民が選んだ選挙団により大統領が選出され、その後選挙団は解散するが、議員内閣制においては、議院がまさに選挙団であり、首相を指名した後もこの選挙団は議院として首相を監視し続けると述べているが、この考えにしがたえば、議院によって常にコントロールされている首相こそ民主的であるといえよう。

注;この問題について小林は議員の供給の問題としている。つまり内閣に加わるには派閥の支持が必要であり、そのためには派閥との関係が必要である。さらにこの議員の人的政治的関係はある特定の利益を媒介項としている。つまりは、官僚と族議員の問題であるとされる。

3節 執行権が安定強化自立化されるか

公選制の支持派によれば、現在の制度においては首相は議会によって過剰に束縛されているという(注)。つまり、議院内閣制においては議会の多数政党によって内閣が組織され、合議制をとる。この過程において首相の決めた政策に対して首相以外の党内勢力によって妨害が入り、これが首相のリーダーシップを阻害している。このような仕組みでは、執行が遅延し現代国家にはふさわしくないとする。

首相公選制は、国民投票というプロセスを経ることによって、直接国民から権力の正当性を得ることができるとされる。行政府の長が得る権力の正当性という点から両者の違いをみてみると、議院内閣制においては国民から議員へ、議員から首班へと正当性が受け継がれていくが、首相公選制においては、国民から正当性を付与された議院とまた別の形で国民から正当性を付与された首班という2つの権威が同時に存在することになる。

すなわち立法と行政府の間に乖離が生じやすい状況に陥りやすくなると考えられる。故にデットロック状態を必然的にはらむことになる。首相の政策に対して、議会が予算案を拒否、必要法案を廃案にするなどして執行を事実上停止に追い込む状態が出現しうる。

このとき、肯定派は米国大統領制を引き合いに出すのであるが、確かに米国は2元システムである大統領制を採用し、国民の直接選挙によって大統領が選出され、大統領は政府の首班となり、議会によって罷免されないという特色を持つ。一方で厳格な権力分立が行われている。しかしながら、米国がデットロックに陥ったというケースはほぼない。肯定派はこのことを持って首相公選制の安定性の論拠とするが、より多く大統領制を採用している国家についてみてみると、南米諸国はクーデタと執行停止状態と独裁が目立つ。確かに独裁やクーデタ政権ができやすいことからもわかるが、執行権が一度掌握さえすれば執行権自体の安定性はある。しかしながら民主主義はきわめて不安定といわざるを得ないだろう。

米国の例をさらに検討してみると、米国においては、まず大統領の選出段階において、共和党、民主党による候補者の指名がそれぞれの党大会において行われる。さらに、米国の大統領選においては選挙人の指名という形で行われ、この段階においてすでに将来の大統領は多数派を形成できているので、初期状態でデットロックが生まれにくい。さらに米国では二大政党制ではあるが、投票規律は緩やかである状態が今のところ続いている。交互投票なども起こりやすい政治風土や文化が背景にある。よって大統領が議会と決定的な対立を抱えデットロックになる可能性が経験的に低いといる。しかしながら、かように民主主義が停止しない大統領制の例は他に類がないのも経験的にいえることであり、米国そのものを移植しない限りきちんと機能する大統領制の実現は不可能だろう。

さらに、首相公選制を議院内閣制風に設計した場合はより困難な状態に直面する。議院内閣制に特有のシステムである議会に対する責任を公選首相に負わせ、さらに内閣も合議制とすれば、議院内閣制に対してなされた首相公選制肯定派の批判がそのまま帰ってくることになるだけではなく、議会の多数派の推移に伴い極端に強い内閣と極端に揺れることになりよけいに安定性を欠くだろう。

4節 国民的権威の創出について

国民的権威の創出によって、国民の政治的関心が高まり、国政が活性化するという議論がある(注)。

3章 首相公選制を導入しうるか

1節 現行憲法原理との関係

現行憲法は、議院内閣制を採用している(41、66,67,68,69,70,73)。まず、条文上は首相公選制(議院内閣制風)を導入するに当たり6点の問題があると考える。第1には41条である。首相は公選されそのことによって議会への従属を断ち切るのであれば、首相は国家の最高機関の一つでなければならないだろう。

第2には首相の対議会責任はいかようなものになるのかが問題である。現行憲法上は66条3項に「国会に対し連帯して責任を負ふ」とされている。この点議院内閣制風首相公選制を導入するとすれば、首相の対議会責任は温存することになるが、それでは議院内閣制と対して変わらないといわざる得ないだろう。対議会責任を制限するならば、この条文に変更を加える必要があると思われる。さらに、これに対応して不信任案についても再検討を要する。69条によれば不信任案可決において特別多数などは特段要求されておらず、本条を温存すればデットロック状態解決には大きな意義を有しているが、反面議会の首相に対する優位を温存することになる。よっていわゆる「内閣不信任案の合理化」として特別多数を要求するなどの制限を加える必要があるだろう。

第3に公選の制度に関連して67条が問題となる。首相公選制のなかにはその公選方法について議院の多数政党の候補を首相公選候補とするという案(注)がある。この案を採用するのであるならば、事実上現行の制度と変わらない。となるいと67条は温存されることになるのではあるまいか。

第4に、議院内閣制風首相公選制を採用したとき、首相を独任機関として定義するのであれば、国務大臣の地位についても再考する必要がある。内閣と議会の分離をあくまで重視するのであれば、国務大臣と議員の兼務を禁止すべきであるし、分離を重視しないとしても68条により内閣の過半数を議員とすれば、デットロック状態が生じたときにさらに自体が複雑になる現況となるだろう。

ほかにも63条において定められている閣僚の権利義務についても同じく再考を要するだろう。

第5に、70条によれば「衆議院議員総選挙の後に初めて招集があつたときは、内閣は、総辞職しなければならない」と定めているが、この条文についてなぜ総辞職が要求されるかについて再考する必要があるであろう。第2点で指摘した首相の対議会責任とも関連してくるが、首相が議会解散権を有するとして、その行使を正当性の対決とするのであれば、全く意味がない。なぜならば首相公選制下において議会は首相にとってバックアップする多数派がいるかいないかのみが問題であって、首相の執行上の障害にすぎない。議会を解散したところで、解散権を行使した首相が再選される保証はないのであり、そもそも首相公選制の目的は、議会とは関係なく首相を選ぶということにあるのであるから、解散権の意味合いは議院内閣制におけるそれとは全く違う。

第6に、首相公選制において公選首相の地位をいかにするかが問題となる。65条,66条,68条,74条、および内閣法4条により現行制度上は合議制であるが、これを独任制期間とするのであれば、これらの条文に手をつけなければならないし、合議制のままとすれば、公選首相とその他国務大臣の地位をいかにするか考えなければならない。

2節 首相公選制の可否

前述したように、首相公選制は主に憲法5章と抵触する。これは首相公選制というコンセプト自体が議会を否定する要素を持っているからであり、議院内閣制自体を否定することから始まるからである。つまり5章を抜本的に改正しなければならないだろう。また、改正が要求されるのは5章のみにとどまらず、最高裁判所の裁判官の任命に関して79条にも及ぶと思われる。現行の制度では、任命−任期制を採用しており、内閣に対して最高裁判所は弱い立場(不安定な立場)にあるといえる。首相公選制により首相権限を大幅に強化できるとするのであれば、権力分立から当然この点についても考慮を要する。つまりは、任命−終身制、もしくは投票−任期制に改正する必要があるだろう。

さらに現行憲法64条は弾劾裁判所を裁判官についてのみ定めているが、公選首相に対してもその対象を広げる必要性があるだろう。

上述の問題点をいかに整理するのかが非常に問題である。議院内閣制風に設計した首相公選制では首相公選制肯定派の目指す内閣と議会の分離、およびそれによる首相の権能と地位の強化ははかれないし、また大統領制風に設計するのであれば、統治だけでなく議会や司法との関係において権力分立を支える制度自体を大幅に転換する必要に迫られ、結局は大統領を首相と予備代えただけの仕組みになる。もっとも大統領制と同じ機構において大統領という語の代わりに首相という言葉を使うことを首相公選制というのであれば、制度選択の問題である。

首相公選制支持派の言うところの現行制度運営下において生じている問題も確かに事実としてはあるが、これは議院内閣制や選挙制、政党政治体制などの制度から生じるものではなく、前述からもわかるように、単純に国民の選挙行動自体の問題である。議会によって執行権がコントロールされていることこそ民主的な執行権の運用である。

首相公選制を支持する意見には、現在議会が機能不全であるので議会に左右されずに執行を行う期間が必要だという問題意識が見て取れる。しかしながらこのような方向での改正は、憲法の改正限界に抵触するおそれがある。

立憲主義の基本精神は権力の拘束であり、制限である。そのためのシステムとして、議会と執行権を常に対立させる大統領型の統治、議会の監視下に常に執行権をおく議院内閣制というシステムが考案されたのであって両者とも議会が健全に稼働してこその仕組みである。すなわち、議会によって常に執行権が脅かされ左右されることにこそ民主主義にかなった統治であるのであって、議会が機能不全であるから新しい何かに代替しようという発想を根底におく首相公選制の導入については、議会と首相のバランス以外にも、その強化される権限についてコントロールする仕組みを重々に備えなければならないだろう。公選されるから民主的でありコントロールが十分であるという制度設計は、上述してきたように危険性が伴う。

すなわち、斯様に軽はずみな議論はかつてカール・シュミットと同じ轍を踏むことになるのではないだろうか。独裁を事実上容認しようとする、もしくは積極的に容認しようとする態度は、ワイマール憲法下ナチス政権へと移行しゆくドイツ共和国にだぶる、とてもではないが正気の沙汰とはいえない状況である。このような異常状態が創出されてしまっていることは危機的に受け止めるべきだろう。

そもそも、議会の機能不全は憲法の想定外の問題である。憲法は基本的に19世紀型の議会、厳格な投票規律を備えた政党の存在を想定していないし、ましてやその政党内部の力関係などは努々思いがけない現象である。議会はあくまでも国民の支配を受けるべきであり、国民は議会に対して絶えず監視を怠ることなく常に行動しなければならないのである。

この憲法上の要請は前文にある「議会を通じて行動」するという理念に現れているといえるだろう。どのような統治体制をとったとしてもそれが民主主義を名乗るのであれば、国民はこの責務を果たさねばならないのではないだろうか。

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