儻armth


目が覚めると、見慣れた自室の天井が視界に映る。
ぼんやりと眺めていると視界に入り込んできたルルが、早く起きろと急かすように額を叩いてきた。
成り行きもあってあのクランスピア社の社長などという立場になったものの、
今日は休暇なのだから、急ぐ用事など何一つない。

精々ルルの朝ごはんを用意するぐらいしか用事もないだろう、と思ったところで、
ルルにしてみれば早く起きてごはんを用意してほしいのだから、急かされても仕方がないか、と思いなおす。

 「分かった分かった、朝ごはんな」
 「ナァ〜!」

窓から差し込む朝日のまぶしさに目を細めながら、ルドガーはルルの頭をぽふりと撫でた。
ふと見遣ったデジタル時計の示す時刻は、トルバラン駅の食堂で仕事をしていたとしても
のんびりと料理をしてから家を出て十分に間に合うぐらいに早い頃合。
そんなあり得た生活をぼんやり思い描きながらベッドから起き上がり、リビングへと繋がる扉のノブに手をかけた。

 「も〜!ルドガーおそーい!」

寝起きのよろりとした足取りでリビングに踏み出して早々、思いがけない声が耳に届く。
はっとして顔をあげれば、そこにはあり得ない光景が広がっていた。

テレビを見ていたのか、クッションを抱え込んでリモコンを手に持ったエルが
黒いソファーから不貞腐れた顔でルドガーを見ている。
そして白いテーブルでは、そんなやりとりに笑顔を浮かべるユリウスが、部屋着姿で新聞紙を広げていた。

 「ははは、ルドガーにしては早起きしているほうじゃないか、なぁ?」

ユリウスの問いかけに応じることもできないほどに、ルドガーは目の前の状況に混乱していた。
知らないうちに分史世界に来てしまったのか、否、分史世界はもう存在しない、あの時エルが願ったのだから。
だとすればこれは幻でも見ているのだろうか、それとも夢を見ているのか。

目覚めきっていない思考回路をどうにかめぐらせて考え込んでいると、
気づかぬうちに席を立ったユリウスが目の前に立ち、ルドガーの顔を覗き込んでいた。

 「ぼんやりしてどうした、具合でも悪いのか?」
 「あぁいや……大丈夫」

慌ててそう返せば、何か言いたげながらも、その言葉を飲み込んだようにユリウスは笑って応じ、
ぽんぽん、とルドガーの肩を叩いてテーブルへと踵を返した。
そして足元を通り抜けていったルルを、駆け寄ってきたエルが抱きかかえる。

 「ルルもお腹すいているよね」
 「ナァ〜」

ルルをお椀の前に降ろすと、手馴れた様子でエルがカリカリをそのお椀の中に入れている。
勢いよくザァッとお椀にカリカリが流れ込む音が響いたせいか、
あまり入れすぎないように、とテーブルで新聞紙を眺めているユリウスがにこやかな声色で発した。

 「ルルはまだダイエット中だからな」
 「あ、そっか……これで我慢してね、ルル」
 「ナゥ〜……」

残念そうな声色で鳴いているルルの頭をエルが撫で、カリカリの袋を元の場所に戻す。
そしてエルは小走りにテーブルへと向かい、ユリウスの正面の席に腰かけた。

 「次はエルたちの朝ごはん!ルドガーはやくー」

急かすエルに微笑んで頷き、ルドガーはキッチンへと足を向ける。
分かっている、分かってはいる。
これが現実ではないことを分かっていながら、目の前に広がる幸せな光景に縋りつきたい気持ちが勝っていた。

朝食なのだから軽めにしようか、何を作ろうか、トマト入りオムレツにしようか、と思考を巡らせる。
エルはトマトが嫌いだというから別のものがいいか、と考えながらも籠に盛られたトマトをひとつ手に取り、
きっとエルには怒られるだろうと思いつつ、久しく作っていなかったトマトソースパスタの用意を始めた。
あの分史世界でユリウスが食べられずに惜しがってくれていたこのメニューを今こそ作ろう、そうルドガーは思った。



どうやらこの日はルドガーもユリウスも休暇らしく、どうにもここでのルドガーはトリグラフ駅の食堂で働いているらしい。
そしてエリーゼとレイアの2人と、エルは出かける約束をしているのだという。
その待ち合わせ時間が朝早かったこともあって、早起きなうえに朝食を急かされたようだ。

 「それじゃあ行ってくるね!」
 「いってらっしゃい、走って転ぶなよ」
 「エルはもうお姉さんだから大丈夫なんですー!でも晩御飯はトマト抜いてね、絶対だから!」

当たり前のようにエルの後にルルが続き、エレベーター前まで振り返りながら手を振るエルを見送った。
そういえば似たようなやり取りをユリウスとしたことがあったような気もして、ルドガーは苦笑する。
エレベーターの扉が閉まり、その姿が見えなくなったところでルドガーはひとつ息をつき、扉を閉めた。
部屋の中へと向き直ると、自室から出てくるユリウスの姿が視界に映る。

 「なんだ、エルはもう出かけたのか」
 「あぁ」

部屋着からいつもの装いに姿を改め、ユリウスは再びテーブルへとつく。
今日は休暇だというのにどうして着替えたのかと問えば、どうにもエリーゼとレイアが今日ここへ来るらしい。
これが夢か幻だとしても、そう聞いては自分も着替えておくか、とルドガーが自室に向かおうとした矢先、
聞きなれたハミングに踏み出した足が止まった。

改めてルドガーが視線を向けた先、ユリウスは鼻歌交じりに時計の調整をしている。
二度と訪れることのなかったこんな平穏な日々の、最後の朝のように。
しかし違う点をあげるとすれば、テーブルにあるのは銀色の時計だけであることだ。

 「何かあったのか、ルドガー」

まるで他愛もない会話をするような調子で、徐にユリウスが尋ねてくる。
ルドガーに背を向けたままながらも、立ち尽くしていることに気づいての問いかけだろう。
いざそう尋ねられると、何でもないと答えるにはあまりに色々なことがありすぎた。
起きてきた時のように大丈夫だと答えようと思うも、ルドガーは言葉に詰まる。

しばしの沈黙の後、かたん、と小さく音をたててユリウスが立ち上がった。
ルドガーの方へと振り向いたユリウスは穏かな笑顔の中に少し困ったような色を浮かべている。
その表情に心揺すぶられ、ルドガーはユリウスの方へと踏み出してその背に両腕を伸ばした。

 「まったく、本当に今日はどうしたんだ?」

背と後頭部に添えられたユリウスの手は温かく、その感覚すらリアルで、ルドガーは現実と錯覚しそうになる。
少し背を前屈みにしたユリウスの頬がルドガーの頬に触れた。

嫌な夢でも見たのかと問われ、いっそあのすべてが夢であったらよかったと思わずにはいられない。
エルもユリウスもいるこの平穏な日々こそ現実であればと、願わずにいられるはずもない。
自然と、ユリウスの背に回して彼の服を握る両手に力が篭もった。

 「今日のトマトソースパスタも美味かったな」

ぽつり、とユリウスが呟いた。
心底、感慨深げに呟かれたその言葉のあと、彼の手がルドガーの髪を優しく撫でる。

今なら、ユリウスが単純にトマト好きだからこのパスタも好きだというわけではなくて、
彼の中でとても大切な意味を持った料理であると知っているからこそ、
その言葉に隠された色々な想いを感じ取れるような気がした。

 「……また作るよ」
 「あぁ、今から楽しみだ……でも、次は朝食じゃなくて夕食がいいな」

どうにか搾り出したルドガーの言葉に、夕食がいいとは言いながらもユリウスがご機嫌な様子で応じる。
あやすように背中をぽん、ぽんと撫でながらもう一方の手で髪を梳くユリウスの手に、
こみ上げてくるものを押し留めることができず、ルドガーは歯を食いしばりながらも肩を震わせた。

 「お前がもういいって言うまで、こうしていてやるから」

目を閉じて、深呼吸をして、と耳元で聞こえるユリウスの声はどこまでも優しく、
そして促されるままに目蓋を閉じて暗転した視界の中、聞こえてくるのはあのメロディだ。
その旋律に耳を傾けているうち、次第に意識が遠のいていくような感覚に包まれる。
ルドガーの抵抗も虚しく、幸せで穏かな世界はユリウスのハミングと温もりを僅かに残して遠退いていった。



気がつくと、見慣れた自室の天井が視界に映った。
はっとして勢いよく体を起こすと、眠っているところを起こしてしまったようで、ルルが不機嫌そうに声をあげる。
いつもならルルに詫びをいれるところだが、ルドガーはそのままベッドから立ち上がり、
足早に部屋を進んでリビングへ繋がる扉を押し開けた。

 「……だよ、な」

静まり返ったリビングには人影ひとつない。
しかし、現実を見たら酷い喪失感に見舞われるだろうと思っていたルドガーの予想に反し、
心の奥にはまだ夢の中で感じた温もりが残っていて、耳を澄ませばあの穏かな音色が聞こえてくるような気がした。

足元には遅れてベッドから降りてきたルルが歩みより、ルドガーの足に擦り寄っている。
感傷に浸っていることを察して慰めてくれているのだろうか。

 「よし、今日は久し振りにトマトソースパスタ作るよ、ルル」
 「ナァ〜!」
 「……あぁ、朝食じゃなくて夕食に、だな」

微笑みかけながら、ルルを抱き上げた。
相変わらずの重量感に、この現実でもしばらくはダイエットさせなければ、とルドガーは苦笑する。
キッチンカウンターを眺めれば、トマトがもう1個しかなかった。
これからトマト入りオムレツを朝食に作って、夕食用に買い足しておくか、と今日の予定を考える。

無意識に紡いでいたメロディに気づいて一呼吸、改めてそのハミングを口ずさみながら
ユリウスの部屋へと続く扉を視界に捉え、ルドガーは柔らかく笑んだ。




件のあと、トマトソースパスタを作らなくなったルドガーのお話。
ノーマルEDでエルママと出会うまでのルドガーはどんなだったんだろうと考えてこうなった。