儡heer madness


この生涯の中で、これほどまでの衝撃を目の当たりにしたことはあっただろうか。
時歪の因子化が進む己の左腕を右手で押さえながら、ユリウスはただ呆然とルドガーの姿を眺めていた。
銀色に煌く刃が弧を描き、間合いをとった相手にはすかさず攻撃手段を銃撃に切り替え、
重い剣戟を受けるとなれば槌に持ち替えてその柄で受け、そして押し返す。

そして今、ルドガーは姿を変え、その手には巨大な槍が握られていた。
困惑する相手に容赦なく切りかかるその姿は修羅が如く。
あの物腰の柔らかく誰にも優しい青年の豹変に、この場に居合わせるすべての人間が動揺を隠せずにいた。

 「ルドガー……」

いつからそんなにも、こんなどうしようもない兄のことをを想ってくれていたのだ、と
激しい戦いを目の当たりにしながらユリウスが呟くも、きっとルドガーの耳には届いていない。
先ほどまでの彼らとルドガーとのやり取りの中で、彼が頑なに己の死を回避せんと苦悩する姿を前にして、
嬉しさもありなが、それでも彼はあらゆるもののために兄の死という選択を選ばざるを得ないだろうと思っていた。

それでも選べないのであれば、無理をさせずもう家に帰そう、こんな一族の悲劇に立ち会わせる必要はない。
そう、ユリウスは思っていたというのに、この光景は一体何なのだろうか。
こんなことを彼にさせたかったわけではなかった、よりにもよって、こんな救いのない選択など。

 「……」

こんなこと、もうやめさせなければ、自分がここで命を絶てばそれで済むことだ。
そう思いながらも、兄の死を迫られて怒り猛る弟を今の己に止められるはずもなく、
この状況で己が命を絶てば、彼の選択は意味を成さず、仲間との決別という結果しか生まないだろう。
ルドガーが彼らへ刃を抜いた時点で、彼の選択を回避する術など、ユリウスにはなかったのだ。

ルドガーの背中越し、また誰かが地に伏せる様子が見えた。
少女の悲鳴も、怒りを露わにルドガーの名を叫ぶ声も聞こえてくる。
目の前にあって、己だけ世界から隔離されてしまったかのようにユリウスは錯覚した。

大切な、大切な彼を守るための選択を、一体どこで間違えてしまったのだろう。
愛しい弟の未来が緋色に塗り潰されていくさまを、ただ見つめ続けることしかできなかった。



一体どれぐらいの時間が経過したのか、10分か、30分か、それとも1時間ぐらい経過していたのかも定かではない。
ようやくとその動きを止めたルドガーの背に、何と声をかけたらいいのかユリウスには分からなかった。
深緋に染まったこの凄惨な光景に不釣合いなほどに、彼の銀糸のような髪が風に吹かれて穏かに靡いている。

 「……お前は、俺なんかのために……」

ようやくと発したユリウスの声は随分と情けなく、弱々しい音色で零れ落ちた。
ルドガーは振り返らない、ただ彼の肩が上下する様子だけがユリウスの視界に映る。
しん、と静けさに包まれたマクスバードの中、彼の後姿が異様に浮いて見えた。

その後のルドガーの独白は、怒り、悲しみ、苦悩、そして絶望に満ち溢れていた。
さながら燃え盛ったあとの残り火のようで、静まり返ってなお覚めない怒りの中で身を焼かれ続けているかのようだった。

 「兄さんの犠牲を強いられる世界なんか、正史世界だろうと壊れたらいい」

どうしてそうまでして、たかだかひとりの兄のために、この世界ごとすべてを投げ捨ててしまったのか、と
ユリウスはルドガーの呟きに言葉を失った。
一体、こんな結末を迎えることになるなどと誰が予想できたというのだろう。

ふいに、視界の中で背筋を正して立ち尽くしていたルドガーが崩れ落ち、彼の握り締めていた双剣が地面へと転がり落ちた。
はっとして彼の名を叫んだ折、時歪の因子化が進む左腕が悲鳴をあげる。
歯を食いしばり、その痛みに耐えながら、ユリウスは長らく硬直していた体を持ち上げ、
体を引き摺るようにしてルドガーの元へと歩み寄った。

 「大丈夫か」
 「平気だよ、兄さんは心配性だな……」

蹲るルドガーの横へ屈み込んで、ユリウスは彼を抱き寄せた。
くたり、と肩口に寄りかかる格好となったルドガーは平気だと言うものの、装いはあちこちが破れ、
その服を黒く変色させるものには彼自身のものも含まれていることに気づく。

 「……っ、こんなに、ぼろぼろになって……」

こんな目にあわせたくなかった、こんな悲しい選択をさせたくはなかった。
どうしてこんなにも辛い思いをさせてしまったのか、とユリウスは唇を噛み締める。
吹き抜ける風の纏うこの血生臭い現実を、ルドガーの手によって引き起こさせてしまったことにユリウスは罪悪感を覚えた。

 「兄さんを諦めたら、それ以外のすべてが救えたのかもしれない、それでも……」

これが自分の選択なのだ、そう言った後、ルドガーが苦笑気味に詫びの言葉を口にする。
ルドガーが謝る必要などない、謝らなければならないのはむしろ自分のほうだとユリウスは思った。
今このような状況の最中にあって、ありとあらゆるものを投げ捨てでまで、
己を選んでくれたルドガーに仄暗い悦びを覚え、心が打ち震えている。

 「……謝らないでくれルドガー、俺は……」

魂の橋のことにせよ、ルドガーの幸せのためと思って選択してきたことだった。
エルを助けたいと願うであろう優しい彼の想いを果たせるように、彼の生きるこの世界の未来を守れるように、と。
しかしただひとつ、ユリウスは致命的なミスを犯していたことに、ここまできてようやくと気づかされる。
ユリウスはルドガーを抱きしめる腕に一層力を込めた。

 「俺の選択は間違っていたんだな、お前にこんな辛い選択を強いることになってしまった」

ルドガーの優先順位において、世界と兄という天秤が躊躇なく兄に傾くことなどないだろうとユリウスは思っていた。
個と多を比較したとき、理性的な判断としては多を選ぶべき場面が大半だろう。
それでもなお、もしもルドガーが兄を選んでくれたら……そんな淡い期待がなかったといえば嘘になる。
しかしそれは幻想でしかない、この世界にとって正しくない判断だ、と無理やりにもその可能性からユリウスは目を逸らしていた。

ルドガーを強く抱きしめていた腕から力を抜いて、ユリウスは彼と視線を交える。
腕の中にある愛しい弟を、場違いなほどの微笑みを湛えながら見つめた。

 「参ったな……こんな状況だというのに、お前のその想いが、何よりも嬉しいと思ってしまっている自分がいる」
 「兄さん……」

ルドガーの想いが、どこまでも無力な己にささくれていた心に潤いを与え、満たしてくれる。
この感覚にはよくよく覚えがある、あんなに小さかったルドガーも、こんなに大きくなった。
昔のことを思い出すと、無性にあの味が恋しくなる。

 「……お前はいつだって、俺の心を救ってくれるんだな」

こみ上げるものに涙が零れそうになるのを堪えるように、ユリウスは目蓋を閉じてルドガーの額と己の額とを寄せた。
絶望の淵にあるはずの今この瞬間において、ユリウスが感じたものは幸福感。
ルドガーが兄を選ぶというのなら、それを受け入れ、例え世界を敵に回そうとも最期の時まで彼とともにあろうと思った。

 「……おいで、ルル」
 「ナァ〜」

少し離れた場所で座り込んでいたルルに手招きをすれば、応じるように声をあげて歩み寄ってくる。
抱え込んでいるルドガーのすぐ横まで来ると、その場に座り込んでユリウスのほうを見上げてきた。
右手を伸ばし、ルルの喉を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めている。

 「ルドガー、俺はお前の選択を受け入れる」

ルルを撫でる手を止め、ユリウスは視線を再び腕の中のルドガーへと向けた。
彼の顔を見遣れば、先ほどまでよりも一層に疲弊の色が濃くなっている。
相変わらず漂ってくる血のにおいに、僅かに心をかき乱されるような感覚を覚えつつもユリウスは言葉を続けた。

 「だから、お前の負ったものを俺にも背負わせてくれ」

ルドガーの選択によって引き寄せられた顛末もすべて、その苦しみや悲しみも分けてほしい。
彼は明確には返答をしなかったが、これはユリウスの決意表明のようなものだ。

いつまでもここでこうしているわけにもいかない、とルドガーを抱き起こしながらユリウスは立ち上がる。
視界の片隅に入る緋色に染まった地面へと視線を向けた。
年齢を問わず、前途有望な人々が横たわるその惨状を、己の命と引き換えに失われた命をユリウスはその目に焼き付ける。
多少ユリウスに寄りかかりつつもどうにか立ち上がることのできたルドガーへと視線を戻せば、
先ほどのルルのようにユリウスのことを見上げていた。

 「家に、帰ろうか」
 「……うん」

このような状況で家に帰るなど非常識にもほどがある、そう心のどこかで思ってはいる。
それでもユリウスは、ルドガーとともにあの場所へと帰りたかった。
とはいえ、さすがにルドガーをこの姿で列車に乗せるのは足がつくのを早めるだけだ、とユリウスは上着を脱ぎ、彼の肩へとかける。

時歪の因子化に伴う痛みなど、もう気になりはしなかった。
己のために傷だらけとなってしまったルドガーを早く休ませてやりたい。
その一心でユリウスはルドガーを支えながらマクスバードのエレンピオス側へと繋がる通りを歩き始めた。

 「しばらくお前の手料理を食べてなかったから、無性にあれが食べたくなった」
 「トマトソースパスタ?」
 「あぁ……お前が作ってくれるものなら何だって嬉しいんだがな」

そう、料理に限らずとも、ルドガーが己のためにとやってくれることは何だって嬉しい。
ただその中でも、思い出の味をやはり食べたいとユリウスは思った。
まったくもって、こんな時に我ながら何を言っているのだと思いながらもついて出たユリウスの言葉に、
ルドガーは微笑みながら応じてくれる。

きっとこれは茨の道、それでもルドガーとともにあることができるのであれば、ユリウスにとっては幸福の道。
オリジンの審判の行方など、この期に及んではもうどうでもいい、この世界がどうなろうとも。

ユリウスは満たされていた、狂気の沙汰と理解しながらも。




血まみれの兄弟EDに会話があったら、の派生系。
Prioridadeよりも気づいたらカップリング感が強くなっていた件。