儼ida importante


またルドガーの料理の腕があがったのではないか、などと考えながら、
ユリウスはトマトベースの温かな野菜スープを掬い上げて口へと運んだ。
焼きたてのトーストとスクランブルエッグが乗せられた皿へも手を伸ばしながら、
向かいに座るルドガーへ思ったことを伝えれば、照れくさそうに礼の言葉が返ってくる。

 「……昨日遅かったみたいだし、疲れが残ってても食べられそうなスープにしてみたんだ」

確かに前日はユリウスの帰宅が遅く、帰ってきたのはルドガーが就寝した後の深夜。
いつも通りに向かった分史世界での時歪の因子探しが、思いのほか梃子摺ってしまったのだ。
時歪の因子がある場所はその分史世界のディールと分かっていたため、
最終的には街ごと吹き飛ばして無理やり終わらせて帰ってきたが、それでもかなり遅くなっていた。

 「心配をかけてすまない、今日はもっと早く帰れるといいんだが」
 「なら、晩御飯は兄さんの好物作って待ってるから」

満面の笑顔でそう言われては早く帰ってこなければ、とユリウスは頷いて応じる。
ルドガーの作ってくれた朝食を綺麗に食べ終えたところで、あとのことはルドガーに任せ、
彼に見送られながらユリウスは部屋を後にした。

マンションの外へ出れば、空は厚い雲に覆われている。
一雨降りそうな気配に、雨が降り始める前には家に帰りたいものだ、とユリウスは思いながら歩き始めた。



クランスピア社に到着し、指示された座標はこのトリグラフ内の場所だった。
今日は早々に終わらせて帰ろう、そう思いながらユリウスは早々に標的となった分史世界へと侵入する。
収束する世界、そして広がった世界は見慣れたトリグラフ中央駅の改札前だ。

 「さて……」

ディールぐらいの規模の街ならまだしも、さすがにトリグラフともなると街ごと吹き飛ばすのは難儀な話。
あまり時間をかけたくはない、急いで情報収集を開始しなければ、とユリウスは歩き始めた。
とりあえずは駅構内に不審な様子は見受けられず、街の方へと足を向ける。

トリグラフ中央駅の外へと出ると外は明るい。
丁度昼時ぐらいなのか、クランスピア社前のパン屋に人だかりができている様子が目に留まる。
ここまでは正史世界とあまり変化のない後継だ。

 「あれ、兄さん?」

ふと聞こえてきた声に、ユリウスは足を止めた。
声がしたのはクランスピア社の方、ユリウスが顔をそちらへと向ければ案の定、ルドガーの姿がある。
場所が場所なだけに、弟との遭遇は想定していたものの、思いのほか早くその状況に陥り、何とも複雑な気分になった。
分史世界とはいえルドガーが弟であることに変わりはない、だというのに自分はこれから彼の世界を壊さなければならないのだから。

 「今日はリドウさんとドヴォールで仕事じゃなかったっけ」
 「……あぁ、その予定だったんだが、リドウが自分ひとりで十分だと言って聞かなくてな」

実際にはこの世界のユリウスは今頃ドヴォールにいるのだろうが、そう苦笑して言えばルドガーも納得したようだった。
ふと、ルドガーのシャツの襟についているピンが目に留まる。
どうやらここではルドガーもクランスピア社に所属しているようで、ユリウスは眉間に皺が寄りそうになるのをどうにか押さえ込んだ。

 「リドウさんってすぐムキになるもんね、どう考えても兄さんに敵うわけないのに……本当にひとりで大丈夫なのかな」

ルドガーの笑顔はよく知っている優しいそれでありながら、その唇から零れる言葉の温度が違いすぎた。
贔屓目に見たとしても、ルドガーが発する言葉ではない。
それは明確に、"正史世界と異なるもの"だった。

 「これで失敗なんかしたらそれこそビズリー社長に顔向けできないんじゃ……なんて、エージェント見習いの俺が言うのもなんだけど」

目の前の少年は相変わらず屈託なく笑っている。
嫌な汗が背を伝うのを、ユリウスは感じた。
じわり、と黒い影がルドガーの輪郭を滲ませ、ユリウスの血の気が退いていく。

この分史世界の時歪の因子は探すまでもなく、既に目の前にいるようだ。
今ここで骸殻の力を発動させ、その胸を貫けばこの任務は完了となる、そうユリウスも理解はしている。
しかし、例えその言葉に鋭い刃を秘めているにせよ、向けられる笑顔はいつもと同じで、
正史世界のルドガーの姿と重なり、まるで金縛りにでもあっているかのようにユリウスの体は硬直した。

 「兄さん、体調でも悪いの?」
 「ん、いや……すまない、少し考え事をしていた」

本当に?と問いかけながら顔を覗き込んでくるルドガーは、先ほどまでと打って変わって心配そうな顔をしている。
その姿はいつものルドガーで、それでもこのルドガーを殺さなければ、正史世界へ戻ることはできない。
本当の、今朝スープを作ってくれたあのルドガーに会うこともできないし、待っているという言葉に応えられなくなってしまう。

息が詰まって、今にも手足が震えそうになる。
分史世界のとはいえ、前に進むためにはこの弟を殺さなければならないのだ。
ユリウスは無意識ながら、自分自身の精神状態を追い詰めていった。

 「大丈夫ならいいんだけど……これから本社で仕事の続き?」
 「あぁ、まだ仕事が残ってるからな」

今ここで決着をつけるべきと分かっていながら、ユリウスはそこから目を背けるようにそう答えた。
いっそここで一緒に帰宅するふりをして、道中なり自宅なりで殺せば正史世界に帰ることができるというのに。
問題を先送りにしてしまったことにユリウス自身気づいてはいたものの、今はこう答えることが精一杯だった。

 「そっか、俺はもう今日は終わりなんだけど……そうだ、晩御飯は兄さんの好物作って待ってるから、早めに帰ってきて」

 『なら、晩御飯は兄さんの好物作って待ってるから』

あぁだめだ、とユリウスは思った。
今ここで彼を見送ってしまったら、それこそ彼を手にかけることなどできなくなってしまう。
この分史世界でも兄弟の仲はいいのだ、ここのユリウスが戻ったら面倒なことになるだろう。

否、それは尤もらしい理由ではあるものの、本音を言えばこれ以上この状況を長引かせることは
却ってユリウス自身の苦痛を増大させる要因にしかならないから、だ。
彼は違う、自分の弟ではない、別の人間なのだ、と必死で暗示をかける。

 「……すまない」
 「え?兄さん何か言……」

ユリウスに背を向け、帰路につこうとしていたルドガーが振り返ったタイミングだった。
少しばかり離れた距離を一瞬で詰め、骸殻を発動させたユリウスの剣がまるで吸い込まれていくかのように、
分史世界のルドガーの左胸を真っ直ぐに貫いた。

 「兄、さん……?」

ユリウスは俯いたままだ。
兄に殺される瞬間に驚愕する、もしくは憤怒する弟の姿など、見たくなどない。
しかし、その分史世界が崩壊する直前、最後に聞こえた彼の声は深い悲しみを湛えた声で、ユリウスの心を貫いた。



周囲を取り巻く空気が変わる。
良く馴染んだそれは正史世界のもので、ユリウスはトリグラフの路地裏にただひとり立ち尽くしていた。
クランスピア社へ戻って報告しなければ、頭の中でそう考えてはいるものの、意識が混濁するのを感じる。
最後に聞こえた声が耳から離れない、信じていた兄に裏切られて殺される瞬間の弟の、悲痛な声色がこだまするかのようだった。

 「俺は……」

分史世界とはいえ、必要とあらば弟にすらこの刃の切っ先を向けてしまうのか、とユリウスは呆然とする。
あんなに大切で、大切で、可愛くてしかたがない弟を、この手で殺すなど、と。
力の抜けてしまった肩は落ち、ぶらりと垂れた両手を持ち上げて見つめると、手にかけた瞬間の感触が鮮明に蘇った。

灰色の空からはぽつり、ぽつりと雫が零れはじめて、足元に丸い染みをいくつも作り始める。
降り始める前には帰るつもりが、どうにも間に合わなかったようだ、などと他人事のように考えたあと、
ユリウスは震える両手を、その手が白くなるほど強く握り、唇を噛み締めた。

 「……っ」

どうにか心を落ち着けようと深呼吸を繰り返した。
次第に強まる雨足の冷たさに、少しずつ、少しずついつもの自分を取り戻していく。
とにかくこのままでは風邪を引いてしまうし、クランスピア社への報告も遅れて帰宅時間が遅くなってしまう。
ユリウスは頭を数回横に振ってから、クランスピア社への道を歩き始めた。



クランスピア社につくと、ずぶ濡れになっているユリウスに他のエージェントたちが驚いていたが、
彼らに構うこともなく、ユリウスは標的となっていた分史世界の破壊が完了したこと、
そして今回も"あれ"が見つからなかったことだけを伝えて、早々に社屋を後にした。

家への帰り道、土砂降りの中でもユリウスはゆっくりとした足取りで歩き続ける。
そろそろマンションフレールの近くにある十字路にあたるか、というあたりまできたところで
正面から走ってくる人影が視界に映った。

 「あ、兄さん!」

こちらに気づいてそう声をあげたのはルドガー、本当の自分の、一緒に過ごしてきた弟のルドガーだった。
彼用の傘を差して、その手にはユリウスの傘が抱えられている。
この土砂降りに心配して、傘を届けようとしてくれていたようだった。

 「うわ、びしょびしょ……ほら、兄さんの傘!早く帰ってお風呂入らないと風邪引くよ」

目の前まで駆け寄ってきたルドガーが傘を差し出してくる。
短い言葉で相槌を打ちながらユリウスはそれを受け取って差してみたものの、
すでに服はずぶ濡れで体温が下がってしまっていた。

 「……兄さん、何かあったの?」
 「いや……傘、届けにきてくれたんだな、ありがとうルドガー」

何かあったかと尋ねられて答えられる内容でもなく、話題を変えようとユリウスは傘の礼をした。
しかしルドガーは相変わらず心配そうな顔で、分史世界の彼と同じようにユリウスの顔を覗き込んでくる。
これは失敗したか、とユリウスは深い溜め息を零したい心境になった。

 「泣いてる」

ぽつり、とルドガーの零した言葉にユリウスは目を丸くした。
雨に濡れて額から流れ落ちた雫ではないのか、と思ったものの、この目頭の熱さは確かに泣いているときのもの。
まるで自分のことのように泣きそうな顔をしているルドガーにユリウスはどうにか微笑みかけた。

 「……ちゃんと晩御飯、トマトソースパスタ作ったから、あとトマトシュークリームも買ってあるし」
 「あぁ、じゃあ早く帰らないとな」

傘を持っていない方の手を差し出すと、少しほっとした様子でルドガーの手が伸びる。
兄弟手を繋いで歩く帰り道、その手の温かさがユリウスの心に染みた。

自分の弟は、ルドガーはここでちゃんと生きている。
だからこそ、あの分史世界の自分が果たせなかったことを果たせるように、
彼を守らなければとユリウス改めて心に誓った。




ルドガーは12歳ぐらい、ユリウスは20歳ぐらいのイメージで書いたお話。

同じ形で同じ名前、同じ関係だったとしても、過ごしてきた時間は別なんだから、
分史世界のルドガーは誤魔化せても、正史世界のルドガーは誤魔化せないんだよ、とかそんな。