兮fter Limonium sinuatum - 9 -

人との繋がりを無意識ながらも常に渇望している自分にとって、
この生活はあまりに強烈で、それこそ眩暈すら覚えてしまうほどに魅力的で、
ありとあらゆる感覚を麻痺させるには十分すぎるものだった。

自分にはやらなければならないことがある、相手にも新しい道を進むために為すべきことがある。
そうと分かっていながらも、その事実から目を逸らして目の前の幸せに縋り続けることは逃避でしかない。

それはまるで幸福な夢から現実へと目を覚ますような感覚に近く、
それでも、幸せな夢を見た朝はどこか寂しさを残しながらも、とても気持ちのよい目覚めを運んでくれるものだ。



その日の朝は綺麗な青空が澄み渡り、清々しい風がふんわりと頬を撫でる、そんな心地よい朝だった。
海からの風には潮の香りが混ざり、イル・ファンの海停に船が入ってくる波音が聞こえる。

 「ここに来ると、いつもアルヴィンとの出会いを思い出すんだよね」
 「随分と昔のことみたいに感じるな」

感慨深そうな声色のアルヴィンに、ジュードは小さく笑いながら頷いてみせる。
あの日ミラと、そしてアルヴィンと出会って、ジュードの人生は大きく変わった。
それだけに、確かにあの日から随分と時間が流れたように感じるものの、感じている程には経っていない。

ただ、あの度を経て人生が変わったのは何もジュードだけのことではない。
大きく変わったという意味では、すぐ隣を歩くアルヴィンもまた同じだ。
或いは、ジュードよりも余程アルヴィンのほうが大きく変化したことだろう。
この感慨深さも、自分より彼のほうがより深いものなのだろうと、ジュードは思った。

 「・・・・・・色々とありがとう、アルヴィン」
 「何だよ改まっちゃって」

アルヴィンは少し茶化すような調子で笑い、彼の左手がジュードの頭をわしゃりと撫でた。
何に対する礼かといえば本当に色々で、今回の件でイル・ファンに来てくれたことから、
心細い中で側にいてくれたこと、そして浸かりきっていた夢から目を覚まさせてくれたこと、だ。

明日発つ、そう昨日アルヴィンのほうからこの生活の幕を引いてくれたお陰で、
ジュードはようやく、甘ったるい目先の幸せに縋り続ける自分を律することができた。
とてもではないがこの生活の終わりを切り出すことは、自分にはできなかっただろうとジュードは思う。

 「結局最後まで、アルヴィンに頼りっきりだったから」
 「・・・・・・いいんじゃねーの?もともと頼らなさすぎなんだよ、お前は」

苦笑気味にそう言われては少しばつが悪い。
他人に頼ることも、甘えることも得意ではないとジュード自身自覚してはいるものの、
だからといってそうそう直せるようなものでもなく、加減も分からない。
この生活が手放せなくなってしまったのも、甘えたい気持ちの加減ができなかったからだろう。

 「なんでも1人でこなそうとすんの、お前の良いとこであり悪いとこだよな、優等生」

ジュードを見遣るアルヴィンの瞳はすっと細められて、その優しげな眼差しと視線が交わる。
からかうような色を含んだ言葉ながらも、ジュードの髪を撫でる手つきも心地よく、
心の奥まで清々しい風が吹きぬけていくような、そんな感覚をジュードは覚えた。

 「手紙は寄越してくるくせに、どっかの誰かさんは厄介なことになってる話なんてまったく書きやしない」
 「う・・・・・・それはだって、アルヴィンも忙しいだろうし、余計な心配かけたくなかったから・・・・・・」

それがだめなんだ、とアルヴィンが少し眉間を寄せた。
逆の立場だったらと考えれば、アルヴィンが言っていることが尤もだとジュードも理解できる。
とはいえ、そこは性格的なものというべきか、人に頼ることはやはり苦手に感じてしまう。

 「ったく・・・・・・ま、あんま1人で抱え込むなよ?」
 「わ、分かってるよ・・・・・・」

がしがし、と先ほどまでとはうってかわって荒い手つきでジュードの頭を撫で、アルヴィンの手が離れていった。
くしゃりとなった己の髪を手櫛で整えて、ジュードは小さく息をつく。

前方では海停に入ってきた定期船が停泊し、乗客用の昇降階段が降ろされている様子が見える。
名残惜しくないといえば大嘘で、とはいえここまできたのだからアルヴィンのことは気持ちよく見送りたい。
ジュードは大きく深呼吸をひとつ、顔を持ち上げて、澄み渡る青空を見上げた。

 「アルヴィン」
 「ん?」

呼びかけに応じる声が耳に届いたところで、ジュードは視線を宙から隣に立つアルヴィンへと向ける。
見下ろしてくるアルヴィンの表情は、少し逆光になっていて見えづらくはあったが、
柔らかい笑みを浮かべているようにジュードには見えた。

 「帰ってきたら、ピーチパイ作ってあげるからね」

そう微笑みかけてみれば、アルヴィンが目を見開いた。
どうかしたのかとジュードは首を傾げて彼を見遣る。
ジュードの無言の問いかけに気づいたのか、アルヴィンはジュードに向けていた視線を前方へと投げ、片手で口元を覆った。

 「いや、なんつーか」

アルヴィンの口篭る様子を窺っていると、手で覆いきれていない彼の顔がほんの少しながら、紅潮しているように見える。
そう間を置かず、アルヴィンが口元を覆っていた左の手で後頭部を掻き、降参したようにジュードのほうへと視線を戻した。

 「こういうのもいいもんだなーって思っただけだっての」

照れくさそうな、照れ隠しをしたいのに隠しきれずに困り果てたような、
そんなアルヴィンの表情を見て、ジュードは思わずと小さく笑い声を零した。
一方の彼はといえば、がっくりと大袈裟に項垂れてみせたあと、大人をからかうものではない、とぼやく。

 「あーあー、じゃあそろそろ行くわ」
 「ふふ、気をつけてね」

アルヴィンが一歩前へと踏み出す。
ジュードはそのまま、彼の背中を見遣った。
数歩先でチケットを購入し終えると、アルヴィンは定期船へ乗り込む階段へと進む。

 「いってらっしゃい」

ジュードが一際大きめの声でアルヴィンの背中へと声をかければ、ちらりと顔だけ少し振り返らせた後、
彼は左の手を持ち上げてひらりひらり、と振って見せた。

アルヴィンの姿が昇降階段から消えた頃合、出港を知らせる汽笛の音が響く。
きっと彼が甲板に出る頃にはもうこの海停からは船が出てしまっているだろう。
それでもジュードは、少しずつ遠ざかっていくその定期船を見送った。

 「・・・・・・よし」

船影が見えなくなった頃合、ジュードは小さく声を発する。
すっかりと立ち止まってしまっていたが、再び前へと歩きださなければならない。
ジュードは細波の音を聞きながらも踵を返し、イル・ファンの街へと足を踏み出した。

天上に広がる青空のような、清々しさを胸に感じながら。


≪Back


間が開きまくりでしたごめんなさい、これでおわりです。

その後、アルヴィンはジュードの部屋に立ち寄るたびに、自分のものをひとつ置いて帰ります。
それを繰り返しているうち、レイア曰く殺風景なジュードの部屋に生活感がでてきたり、
心地よい風が吹き込んでくるような感じに変わっていく自分の部屋を眺めてジュードはほっこりしてしまうわけです。

部屋はまるでその人そのもののようですね、というそんな後日談の後日談。
おそまつさまでした。