小学校@
足立区立伊興小学校。自分では自覚していませんでしたが「まじめでいつもにこにこ」が先生方の評価でした。
放課後は近所の子どもたちといつも日が暮れるまで遊び、夜は早寝でぐっすり。
近所には年下の子が多く、ガキ大将というか、アネゴ的に、子どもたちの面倒を見ていました。
家で勉強したことはほとんどありませんでしたが、授業の集中力があったようです。
「よく遊びよく学び」そのものでした。
小学校A 平和ってすごい
4年生のときに父が買ってきた漫画「はだしのゲン」。
そこには、日本国民が戦争に借り出されるために「愛国心」の名のもとに行われる教育や、「戦争は間違っている」と言
ったら最後、治安当局に目をつけられる、本音も言いたいこともいえない社会の姿が。
そして何よりも、原爆投下で人の命が一瞬にしてこなごなに。
皮膚が焼けただれ、衣服を引きずっているように見える、原爆の傷にうじが湧く、死体の山、急に毛髪が抜けて亡くな
る。戦後も食糧難で大変な生活。
「こんな恐ろしいことが現実に合ったなんて・・・」と夢に見てうなされるほどにショックを受けました。
「二度と戦争はしてはいけない。
人が人を殺すなんて絶対にいけないこと」「平和って当たり前のように思っていたけどすごいこと」。
子ども心に、深く胸に刻まれました。
小学校B 得意とはいえない運動。でも運動会、バドミントンや泳ぐこと、
そしてスキーが大好きでした
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学ぶことは新しいことを知ること。
楽しくてなりませんでしたが、唯一のニガテが体育の授業。
左利き(ペンや箸は右)だったので、足の踏み出しなど、左右が非対象となるス
ポーツは、教わっているうちにわけがわからなくなってしまうのです。
でも運動会は大好き!みんなで一致団結して何かをやることが好きだったんで
すね。
写真は、開会式の入場行進の指揮者(バトン)をやっているところです(伊興小
学校6年生)。
笛も「ピーッピッ」と吹いて全体を誘導する役割だったので「ピッピちゃん」と男の
子たちから言われていました。
家の近所でやるバドミントン、小学校2年生位以来毎年連れて行ってもらってい
たスキーも大好きでした。
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小学校C 友達に勉強を教えてあげるのが好き
小学校では、よく班(グループ)学習が行われました。
勉強が得意でない友達に教えてあげて、わかってもらえたときはうれしくてうれしくて・・・。
そして自分も教えてあげることで更によくわかるようになりました。
「学校の先生になりたい」と思ったのもこの時期でした。
この体験からも、「習熟度別で競い合う」より「共に学びあい、分かり合う」、日本共産党が主張する教育のあり方に確
信をもっています。
小学校D お手伝いと親代わり
●私の両親は共働きでした。
だから家事はお手伝いではなく、家族が成り立つための当然の分担でした。
「今どきの小学生でも和子ちゃんはこんなにがんばっているのねえ」とよく言われ、ちょっぴりうれしくなり、胸を張りたい
気分です。人っていくつになっても誉められることでがんばる力が湧いてくるんですね。
私の役割は、小学校の1・2年の低学年から夕飯のご飯を炊くこととお風呂を沸かすこと。
それと「ピーポー」と配達に来る豆腐屋さんを呼び止めて豆腐をボールに入れて買うことでした。
とはいっても遊びたい盛りの子どもです。
お風呂をつけたまま遊んでしまい、お湯をフロ釜で沸騰させたことや、食事時になってご飯が炊けていないことも…。
その中で、約束や役割を守らないことがどれだけ人に迷惑をかけることか、身をもって体験してきました。
だから、今でも役割を分担したのにそれを守らないことが嫌いです。なかなか難しいですけれどね。
●もう一つの私の役割は、6学年はなれた妹の保育園のお迎えです。
土曜日だけ、電車を乗り換えて、大師前駅から20分歩いて小鹿学園(当時の小規模認可保育園―西新井本町にあっ
た)に迎えに行くのです。
小学生にとっては、大仕事です。むずがったりだだをこねる妹をなだめて、長い距離をあるいて家まで連れて帰りま
す。
保育園に行き大師前駅まで一緒に歩き、西新井駅で下りホームに乗り換えます。
ある日のこと、いつも通りに下りホームにきた電車に飛び乗ったら、竹ノ塚を通過して、草加駅まで連れられていってし
まいました。そうです。準急に乗ってしまったのです。
そのときの心細さといったらもう口ではあらわせないものです。
小さな妹を連れ、泣きそうになりながらやさしそうなおばさんに「竹ノ塚へはどう行けばいいのですか」と聞き、やっとの
思いで帰ってきました。
●その時々は大変でも、この体験が自立心や自ら考えて行動する力の原点になっていたように思います。
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