文教大学時代@学ぶことと生きること…
 

自治会主催の新入生歓迎キャンプ(千葉県 鵜原理想郷バンガロー)前列右から二番目 が私です。 


同じく自治会主催の新入生歓迎キャンプに て。中央正面が私です。
学問の自由と大学の自治について考え、目覚めました。

 文教大学には真理を探究し、社会進歩をめざし、自らの生き方を模 索する仲間がたくさんいました。私は、社会科学研究のサークルに入 り、また、自治会活動に関わるようになりました。本当にたくさんのこと を学び、たくさんの企画をつくり上げ、学生らしいときを過ごしました。夏 にはサークルや自治会の合宿、教員養成系の大学だったので冬には 関東教育系学生ゼミナール大会や全国教育系学生ゼミナール大会に 参加。多くの出会いがありました。新入生歓迎キャンプや、学内自主ゼ ミナール大会、平和を考える映画上映や学園祭、自治会ガ関わってい る行事は山ほどあるのです。


文教大学時代A学友会会長(自治会委員長)に 

文教大学キャンパス。当時はメールもな かったので、ここに唯一の伝達手段とし て自治会やサークルの立て看板が乱立 していた。ペンキ職人のように立て看板 を書くことも鍛えられました。
文教大学キャンパス。当時はメールもなかったので、ここに唯一の伝達手 段として自治会やサークルの立て看板が乱立していた。ペンキ職人のよう に立て看板を書くことも鍛えられました。 
 2回生の冬から3回生の冬まで、大学の学友会長(自治会委員長)をつと めました。一言ではいえないくらいの厳しさもありました。「学生の要求を実 現したい」この一点でがんばっているのに、「学友会(自治会)=日共・民 青」という構図をつくり上げて、意図的に学生からの分断策動をする動きが あったからです。のちに、この中心に立っていた人は、保守系の政治家の 秘書になったと風の便りにききました。同じ大学生として学校環境を良くす るためにがんばっているのに、何でそんなに悪意をぶつけるのかと、涙を 流しながら取り組んだ日々もありました。学友の理解を得るためにありとあ らゆる事をしました。当時はワープロもなく、印刷機も貧弱なため、何日も 徹夜で議案書を作成し、真冬の火の気のない印刷室で、朝4時まで立ちっ ぱなしで印刷作業を行い、腰もいためました。
 よく私は「打たれ強い。へこたれない」といわれます。楽天性とあきらめな い気持ちは、この時に培われたのでしょうか。

文教大学時代B初めてのアパート生活 

 文教大学は、自宅のある足立区からはとても近い大学でしたが、自治会委員長をやるようになり、それでも終電に間
に合わない日々も続きました。そこでアパートを借り、初めての一人暮らしをはじめました。とはいっても、地方出身の
学生も多く、大学のある北越谷駅周辺は、学生街であり、仲間もたくさんいました。同じアパートに移ってきた後輩の女
の子と一緒に朝食をつくり食べ、お弁当もつくって食事代と時間の節約をし、大学に行きました。1ヶ月の生活費は7万
円。6畳一間の家賃が2万5千円でしたから、残った4万5千円で光熱水費から食費、合宿などにかかる費用までやりく
りしました。ラーメンにたまねぎが入っていれば大ご馳走でした。それでも苦に思ったことは一度もありませんでした。
 家庭教師やダンボール工場、アルバイトもいろいろやりました。今にして思うとそれだって両親には大変な負担であ
り、外に出して体験をさせてもらったことに心から感謝しています。

 

渡辺都議の最初の都議会議員選 挙。
文教大学時代C政治家との出会い 
 
渡辺都議の最初の都議会議員選挙。 
「選挙でのアナウンサー」をアルバイトやボランティアで何回も行いました。もう 選挙権もありましたから自ら日本共産党のアナウンサーを買って出ました。そ こではたくさんの出会いや強烈な体験がありました。衆議院選挙では、埼玉県 の政党カーのアナウンサーとして、近くだけでなく秩父や川越、県内を駆けめ ぐりました。都心から離れているほど朝が早く、朝の駅頭宣伝は、現地に前泊 し、(足立でなら7時からが一般的)秩父では朝の5時のまだ暗いうちから駅に 立ちました。音を出せるようになる8時にはラッシュのピークは完全に終わって いました。早朝から夜まで必死でがんばる議員や候補者にたくさん出会いまし た。
右翼の街宣カーに追いかけられたこともありました。その時は「公職選挙法を まもって憲法に保障された活動をしているのに、なぜそれを暴力で壊そうとい うのか」と怒りにふるえ、「私たちはどんな暴力にも負けません。民主的な○○ 市をいっしょにつくりましょう」をマイクを通して訴えまわりました。
負けない気持ちと不屈な気持ちが培われた貴重な機会でした。
 

夏の自然学級に指導員として参加。中心で 麦わら帽子をかぶっているのが私です。in群 馬県 葉留日野山荘
文教大学時代D「青春崩壊コンサート」 
 
夏の自然学級に指導員として参加。中心で麦わら帽子をかぶっている のが私です。in群馬県 葉留日野山荘 
 自治会の活動以外にも、いろいろなことを行いました。「青春崩壊コ ンサート」と名づけられたコンサートでは、ボーカルとして松任谷由美の 歌をうたいました。煮詰まるとピアノ棟(学校の先生になる大学だった ので、全個室のピアノ棟があり、いつでも弾くことができました)の個室 に入り、思いっきりピアノを弾き、夏はいつでも開放されているプール で泳ぎました。スキーにも行きましたし、テニスもやり、尾瀬の山にも行 きました。「夏の自然学級」という、小学生の合宿型の体験学校の指導 員もやり、元気な子供たちの班を受け持ち、指導をしました。私の中に は、多くのことを体験して人間の幅を広げたいという想いがいつもあっ たようでした。

 

文教大学時代Eめざすものが少しずつ変わって 

 学生時代に忘れられない講演がありました。それは埼玉大学教授の清水寛先生の「学ぶことと生きること」のタイトル
で、障害児の「生」について語りながら、学生に問いかける講演でした。「どんなに障害の重い子どもでも、同じ道をたど
って発達するんだ。人間は生まれながらにして発達・成長していく存在なんだ。人の命は本当に大切なんだ」と胸を打ち
ました。私の中で、少しずつ「児童よりも、生まれて間もない赤ちゃんや幼児に関わって仕事をしたい」という気持ちが
芽生えました。
 そして、通信教育を受けて国家試験を受けて保母資格をとり、保母の道をめざすようになりました。