文教大学キャンパス。当時はメールもな
かったので、ここに唯一の伝達手段とし
て自治会やサークルの立て看板が乱立
していた。ペンキ職人のように立て看板
を書くことも鍛えられました。
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文教大学キャンパス。当時はメールもなかったので、ここに唯一の伝達手
段として自治会やサークルの立て看板が乱立していた。ペンキ職人のよう
に立て看板を書くことも鍛えられました。
2回生の冬から3回生の冬まで、大学の学友会長(自治会委員長)をつと
めました。一言ではいえないくらいの厳しさもありました。「学生の要求を実
現したい」この一点でがんばっているのに、「学友会(自治会)=日共・民
青」という構図をつくり上げて、意図的に学生からの分断策動をする動きが
あったからです。のちに、この中心に立っていた人は、保守系の政治家の
秘書になったと風の便りにききました。同じ大学生として学校環境を良くす
るためにがんばっているのに、何でそんなに悪意をぶつけるのかと、涙を
流しながら取り組んだ日々もありました。学友の理解を得るためにありとあ
らゆる事をしました。当時はワープロもなく、印刷機も貧弱なため、何日も
徹夜で議案書を作成し、真冬の火の気のない印刷室で、朝4時まで立ちっ
ぱなしで印刷作業を行い、腰もいためました。
よく私は「打たれ強い。へこたれない」といわれます。楽天性とあきらめな
い気持ちは、この時に培われたのでしょうか。
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