大学卒業 〜 社会人(保母時代)

いっしょに保母の国家試験に無事合格した友達と京都に旅行したときの写真で す。
一年間、法律事務所で働きながら勉強をし、保母になりました。
 

初めての担当は産休明けの双子の赤ち ゃん―お散歩風景―
●保育園の保母としての就職先は葛飾の「たけのこ保育園」。乳児専門の しっかりした保育所です。土地さえ保育園が所有していれば「認可保育園」 となることができた民主的な保育園でした。私は、一番小さい産休明けの赤 ちゃんを担当することになりました。今でも、赤ちゃんのことだけはよくわか ります。

●忘れられない出来事があります。小さな乳児専門の保育園。調理をする 人がいなくなり、誰かが担任をもたずに献立・調理などをやらなければなら なくなりました。子どもと接したくてなった保母。職員会議では誰も「私がや る」とはいいません。そういう時に、うじうじしているのが嫌いな私はつい「も ういいよ。私がやるよ」と言ってしまうのです。でもこれはこれで貴重な体験 でした。離乳食作りや30名の子どもたちの手作り給食とおやつの献立と買 出し、全般を行います。料理が嫌いでなかった私、もう少しやっていたら「調 理師免許をとろうか」と思ったほどで、一度決めたこと、楽しんでいろいろな レパートリーの料理にチャレンジしました。

保育園の仲間と箱根へ、職員旅行。中央が私。
左が私です。


この保育室がミニ祝う会場に
(写真は、赤ちゃん組の運動会のハイ ハイ競争)
夫との出会い・結婚 
 
この保育室がミニ祝う会場に(写真は、赤ちゃん組の運動会のハイハイ競 争) 
 夫とは、地元(足立区)の青年運動の中で出会いました。りっぱな会社に勤 めているわけでもないし、お金もないけれども、そしてお互いに未熟な人間で したが、いろいろなことをよく語り合いました。「俺はやりたいことをやらせる」 と当時はちょっぴり偉そうにいっていましたが、その言葉の重みを感じたの は、結婚し、議員になってからでした。私がどんなに忙しくても、帰りが遅くな っても、本当に文句は一つもいわれませんでした。
 当時、保育園の中で、保護者や子供たちが勢ぞろいして、小さな「結婚を 祝う会」まで開いていただきました。それなのに、「和子先生はずっと勤める と思っていたのに」といわれながら、わずか数年で保育園を去ることになった ことは、今でも胸の痛みを感じます。そのときのお祝いのホットプレートは今 でも愛用しています。
 子育て支援を充実し、保育環境を少しでもよくするために力をつくすこと で、恩返しをしたいと今でも思っています。
 針谷みきお区議が仲人で、お金のなかった私たちは針谷宅の3階に間借 りし、保育園へはオートバイで通う新たな生活がスタートしました。
 
保育園の保母としてA東京の保育室連絡協議会保育者部の責任者として 
 
ひよこ組で記念写真 
 保育園ではいろいろな役割分担がありました。そのうちの一つが、東京の保 育室協議会の仕事であり、私は、25歳でその役員と保育者部の部長を務め ることになりました。他の業種の事業所でアルバイトをした経験と比べても、保 育室にはお金がありません。福祉分野にまわるお金は、他の事業活動とは大 きく違うことを身体で感じました。本当に、紙一枚・保育の教材一つ買うにも勇 気が要るくらいでした。だからこそ、もっと保育室全体の補助金を増やすこと が、子どもたちの環境を良くすることになる…こういった想いから運動にも携わ り外の世界に出て行くようになりました。