これまで体験した油絵の具・アクリルガッシュ.水彩絵の具とは全く違った画法で、絵画に対するイメージが大きく変わると思います。紙やキャンバスに描くのではなく、硬い壁に描く抵抗感や、フレスコ独特のマチエールの美しさを味わってもらえたらと思います。
また、モルタルを練ったりコテで壁を塗ったりして、描くまでの準備は教材キットがないので手間がかかります。描きたい時に描ける手軽さも大事ですが、支持体から描画材料まで自分の力で準備することも制作の上では大切なことではないでしょうか。ファーストフードに対するスローフードのように、フレスコはスローペインティングともいえるでしょう。描くことの意味や、絵とは何かの問いに対するヒントを古典画法は教えているように思います。技法に縛られるのはナンセンスですが、技法を通して絵画の底面に流れる描くことの意味を感じ取れればと思います。
新教育課程で芸術の時間が大きく削減されています。ゆとり教育の結果として、不登校、学級崩壊に始まり、最近は大学生の学力低下が話題です。様々な問題を学校現場は抱え込んでいます。以前文部科学省の視学官の方が「美術では日常生活に使えるものを教えるべきだ。」とおっしゃっていました。それは、教科の存亡が文部科学省の中で取りざたされていて、美術は必要ではないという意見に対して説得力ある反論が必要だと言うことでした。例えば動物の絵が描ける、図法的に自然な絵が描けるなど、できなかったことができるとはっきり分かるものが必要なのだと。その流れで、美術の基礎基本を明確にしなければならないのだそうです。確かにいろいろな立場の人がそれぞれの意見を言われるのですが、実学優先的な最近の風潮には賛成できかねます。学校現場の成果主義、民間の経営手法の導入。国立大学の再編・独立行政法人はその最たるものでしょう。しかし、芸術教科に効果効率の物差しをあてて何を計るというのでしょう。解りません。私は芸術の時間までマック風のファーストフードにしてはいけないと思うのですが。本当に芸術の時間は不要なのでしょうか。現場の教師は勿論、生徒も含め克服すべき時代の困難は効果効率で越えられるか。生きる力はただのスローガンには賛成します。しかし、現実は弾力的な運用の中で右往左往してるのが実態ではないのでしょうか。
この不況の時代を克服するために日本はIT立国を目指すのだ。ずいぶん前から言われていました。しかし、目に見えた効果はないようです。次はきっと、日本製品が売れないのはデザインが悪いからだ。日産を見習え。学校のでデザイン教育を充実させよ。そんなことが言われそうな気がしてなりません。気がついたら美術教育がデザイン教育に置き換わったり、いつの間にか主要教科と呼ばれたりしたどうしよう。(そんなことは、ありえない。ナイ、ナイ)冗談はさておき、時代に翻弄される美術教育は貧しいとしか言いようがありません。芸術は時代を超えて現代の私たちに語り継がれ、生活の中で生きています。それが人間の精神の営みなのですから。経済を中心に回る現代の貧しさがちらつきます。
ミケランジェロの精神性にも触れ、生徒が少しでも感心を持ってくれたらよいなと思います。大袈裟に言えばミケランジェロを追体験するのです。
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