茂原市教育委員会から「茂原市の絵馬調査報告書」が刊行されました。

2003年から茂原市文化財審議委員会が行ってきた市内寺社所有絵馬の実態調査の報告書です。この調査報告書の巻頭文を執筆しました、以下はその全文です。表紙のデザインも私がやりました。お洒落なデザインが出来たのではないかと思いますが、如何でしょうか。

 この報告書は市役所9階の生涯学習課で入手できます。A4版32ページ。図版は全部カラー。一部500円です。

1.調査の概要

 今回の調査は市内全ての寺社を対象とした。事前に絵馬・奉納額の所有の有無を管理者に問い合わせ、所有ありと回答のあった34箇所の寺社について詳細調査をした。調査対象は1945年(昭和20)以前の絵馬で、現品を確認できるものとした。また奉納額のうち、句額は別の調査対象とした。
これら以外で特徴のある奉納額や時代が特に古いものについては、併せて絵馬の調査の対象とした。
また、原型を推測できないほど損傷が激しい物、経年変化や風化で絵柄や内容を判別できない物、1945年以後に改修や補修を受けてオリジナルから著しく離れた物等は対象から除外した。
寸法は縦横の各最大寸法を計測し、各々を写真撮影で記録した。1点づつ正面から撮影することとたが、高所にあって斜めからしか撮影できなかった物や、室内で光源が充分でないため鮮明な画像を得られなかった物等、条件が必ずしも一定ではないことはご容赦願いたい。また、小品は数点をまとめて撮影した物もある。銘のあるものは判読できる限りで、全て記録した。

2.千葉県実態調査と本市調査結果の比較

(a)題材別
 図1は千葉県調査(1996年)と同じ題材分類に分けて比較したものである。
県調査では拝み図が圧倒的多数を占めている。拝み図は殆どが類型化した図柄の小絵馬であることが多い。(写真1)これらは絵馬堂などに遺棄されずまとまって遺されているケースが多く見られるためである。
それに対し、本市ではそれ程多くは見られなかった。その理由として絵馬堂などの専用スペースがなかったり、あったとしても取り壊されたりしたため、長い年月の間で廃棄されたと考えられる。
安産で広い信仰を集める腰当・子安神社では、軒下や壁に風雨にさらされて風化した拝み図が多数見られる(写真2〜3)。ここでは絵馬堂ではなく、社殿の壁に直接釘で打ち付けて、奉納祈願していた様子が伺える。

絵馬の面白さの一つに絵解きや比喩がある。蛸と腫れ物取り、鶏と夜泣き封じ、二股大根と安産等多数あるが、今回の調査ではこれらの絵柄は少数に留まった。萱場・八幡神社「断ち事図」(6d)は錠で禁止を表す、江戸時代に流行した典型的な図像である。
本市で最も多い図柄は武者絵図で、全体の1/3以上を占める(図4)。明治期のものが多いことから、日清・日露戦争が奉納の動機であろうと推測される。朝鮮に出征した皇后と非常な長寿を誇ったその侍従を描いた「神功皇后と武内宿禰図」は4点、他に日露戦争出征兵士図も見られた。
次いで、伊勢・富士山・出羽三山など参詣記念図が多い。絵馬の他にも境内には行事完了記念の石碑が多く遺され、講が盛んで地域の人々の結びつきが強いことを物語っている。

(b)年代別
年代別では江戸11%、明治28%、大正5%、昭和5%、不明51%であった。年代を特定できなかった不明は半数以上を占めた。県調査の不明が8%に比べ多い数字である。時代別では明治が最も多く、これは県の調査とも一致する傾向である(図5,6)。県内最古の絵馬は、大網白里町・縣神社の「弁慶図」・「牛若丸図」で、共に1579年(天正7)であるが、市内最古の絵馬はこれより凡そ180年後の、1757年(亨保17)真名・天照大神社の「富士の巻狩り図」(12d)である。天照大神社にはこのほか「天の岩戸図」(1830年)「仁田四郎猪狩り図」(1797年)の大型絵馬が比較的良い状態で残されている。前者二点は市の指定文化財となっている。
                       
3.その他
高師・八幡神社安楽老家所蔵高札奉納額(24a)は江戸時代の高札を額にして奉納したものである。高札の内容は捨て馬の禁止を徹底するもので、高師には荷役の中継駅が置かれていたことを裏付けている。奉納した安楽老家は高師村の素封家佐見平吉郎氏である。
永吉・八幡神社の「弓術射的図」(33a)は射手名と的の当たりを図案化したものだ。「おびじゃ」は弓で的を射り、当たった場所で作柄を占う神事で、当時の風習を知る貴重な資料である。

4.他地域との交流

 高田・八幡神社の「牛若丸と弁慶図」(5h)は清名幸・御嶽神社(大網白里町)の作品と構図が全く同じである。前者の年代は不明、後者は1899年(明治32)ではあるが共に同時代と見て良い。空間の表現や細部の描写に明らかな違いが見られるので同一の作者ではない。手本となる下図が存在する可能性も考えられるが、県内には同一構図の絵馬はこの2点のみである。先に描かれた絵馬が評判を呼んだので、そのまま構図を頂いたものであろうか。拝み図など小絵馬では同じ図柄のものが多いが、大絵馬では珍しい。
裁縫教室図(3f・15a)も大網白里町などで確認できるものと同じ図柄であった。

5.須賀神社(萱場)八岐大蛇退治図(7a)と子安神社(腰当)庚申図の共通性。

 腰当・子安神社の庚申図は3点残されていたが、同一構図のものが2点あり、奉納主が判別できるものは、昨年改修されている。他の2点(17a,17b)も絵の具の剥落が激しくし、僅かに弁柄の朱色と墨黒が残る程度である。この3点は絵の状態と庚申の題材から同一年の作と考えて良い。いずれも、60年に一度の庚申の祭礼で賑わう境内の情景が克明に描かれており、絵師が現地に赴いて写生したものと推察される。
一方の「八岐大蛇退治図」(7a)は画面全体が丹念な描写で覆われ、圧倒的な迫力と躍動感にあふれた逸品である。江戸末期の絵画レベルの高さを物語っている。衣服の柔らかな襞と美しい文様、的確な描写とメリハリの利いた描線、優雅な手のポーズ、大胆な雷光と波の対比など、絵画性の高い作品である。残念ながら作者銘はない。相当の技量を持つ絵師の仕事であろう。
この絵馬は拝殿のスペースに比べてサイズが非常に大きいため、天井に取り付けられ、このことが絵馬の保存に幸いしていた。画面に付着した埃や塵が湿気を含むと黴を発生させる。その黴は絵の具に含まれた膠を養分としてさらに画面全体に黴が広がり、遂には作品の崩壊へと至る。このような危険から守られ、長期間の作品保存に耐えることができたのであろう。
 両者に共通するのは次の点である�)�延元年(1860)の記銘がある。��形状サイズもほぼ同一で、共に板を6枚合わせた山型5画形である。�O箸虜犲舛癲⊂�り金具も一致する。�な�納者は萱場女中である。これらのことから同一の工房か絵師によるものと推測できる。江戸後期には絵馬屋が日本橋などに存在し、大絵馬の注文に応じていたことが知られている。絵馬はこのような所で制作されたか、絵師が当地に赴いて制作されたのではないだろうか。

6.おわりに
 市内寺社所有絵馬の悉皆調査調査は今回が初めてであり、1996年(平成8)に実施された県調査から漏れたものも拾うことができた。これらの絵馬の現況を全て画像で記録することは大変意義深いもと考える。
1981(昭和56)に市内各寺社所有の絵馬を集めた絵馬展が開催された。それから20年以上経た今回の調査では、当時出品されたほとんどの絵馬を確認することができ、正直、胸をなでおろした。古い、汚い、破損している等、様々な理由で遺棄され、その数を減じている現状の中で、調査に訪れた先々の社ではどれも大切に扱われていたことが印象的であった。
 本報告書に登場する絵馬はどれも庶民のささやかな願いが形になったものだ。現在を生きる私達にもその願いは伝わってくる。それは幸福により良く生きたいという誰にも共通する願いなのだ。長い年月に耐えて伝えられた願いの形をそのままの姿で、是非とも次の世代へと渡し継ぎたいものである。今回の調査がそのための一助となることを願って止まない。
 錠の開閉や撮影の便宜など、貴重な時間を割いて快く調査に協力していただいた関係者の方々に、この場を借りて改めて厚くお礼を申し述べたい。
 また、本報告書をまとめるうえで御宿高校校長古山豊氏、成田書道美術館の小倉氏に助言を頂いた。重ねてお礼を申し述べたい。
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