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■展覧会シーン:特別展 生いき人形と松本喜三郎 開幕 |
取材日:2004年8月24日 掲載:8月26日 ストリート・アートナビ |
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当世流行りの呼込み風にいうならば、遠くの人も寄っといで、近くの人はもう少し側まで寄っといで。見ないと損だよ、一生の後悔だよ。 生まれは同じ、肥後は熊本、火の国の細工人。「松本喜三郎」とその弟子「江島栄次郎」、それから松本喜三郎のライバル「安本亀八」の『生人形』達が勢ぞろい。並んで並んで、割り込みはだめだよ、そこのシブいお兄さん。 観音様が微笑んでるよ。まるで生身の人のように。目線があうとどっきりするかも。誰かがありがたいと拝んでいるよ。「蔵王さんが祈り出した権現さん」なら「観音さまは喜三郎はんがきばって生み出した生ぼとけ様」。小さい子はおねしょするから目をつぶってみてね。お姉さんはおみやげに貴い方の大事なものを見て帰ってよ。(安産祈願に良いかもね。)ちょっとちょっとそこの昔のお姉さん、お代は先に払ってね。さあいらっしゃい、いらっしゃい。 |
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▲浄国寺のご住職がわざわざ熊本から来られて谷汲観音像の記者の質問に応えてました。 |
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●民衆芸術の華「つくりもん」が「生人形」に「観音さま」になった。 |
残暑の中に小さな秋を見つける8月25日、大阪歴史博物館において、特別展「生人形と松本喜三郎」が華やかに開幕しました。まるで生きているかのような人形達も最近の人は何のことか分からない人が多いかもしれないが、ある時期そう江戸後期から明治にかけて大阪は町人の町、経済の町そして娯楽の町だった。今の中央区、千日前、なんば新地に色んな楽しい催しが行われた。今ならUSJと海遊館をくっつけたような場所だった。そこで熊本出身の松本喜三郎の生人形の見世物が初めて催され好評を博し、更に花のお江戸・東京でも成功を収めるきっかけになった。特に東京浅草での見世物『西国三十三所観音霊験記』は三十三カ所の霊場にまつわる観音様の物語りを等身大で表現した大作で興行として大成功で4年間のロングランとなった。中でも最後の切舞台となる第三十三番の美濃谷汲寺の場面に制作された《谷汲観音像》は、来場した近代木彫のパイオニアとして名高い高村光雲も絶賛したと伝えられる。 松本喜三郎は熊本に帰った後、浅草寺に預けていた《谷汲観音像》を引き取り熊本・浄国寺に納めた。今も寺では厨子に安置され人々に拝まれ信仰されている。 展示されている生人形を見ていると、感じやすいかそうでないかにもよるけど、じっと見てたら人形の中に入っていくかもしれない。単にこわいと思って帰る人もいるが、想像力で生人形と会話できるかも・・・。人形やドールは作った人の魂が入っていると云われるので乗り移るかもしれない。 最後に南嶌 宏氏の『どうか、この展覧会が皆さんの網膜の上の愉楽だけで終わることなく、喜三郎と生人形師たちの魂が、一人一人に届く心の展覧会となるならば、これ以上の喜びはありません。』の文章を書き添えます。※「生人形と松本喜三郎展」実行委員会 委員長 南嶌 宏【熊本市現代美術館館長】の展覧会図録の挨拶文より部分転載。 |
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▲松本喜三郎作「聖観世音菩薩像」
松本喜三郎最晩年の傑作。浄国寺【じょうこくじ】に谷汲観音【たにぐみかんのん】像を納めるのに奔走した喜三郎の番頭・永野彌七【ながのやしち】の兄が住職をつとめる来迎院のために制作した。 当初から仏像として制作され、江戸時代の仏像表現に倣った作品だが、顔や指先の精緻な木彫と胴体の張りぼて構造の組み合わせが生人形師のこだわりを感じさせる。 平成12〜13年、松本喜三郎顕彰会を中心とする募金活動により、大規模な保存修復がおこなわれた。 |
◎熊本・来迎院のたっての希望を叶えるために初めから仏像を目的に造られた。柳腰のしなやかでスレンダーで流麗なラインが女性美の極致を表現し、少し振り向きながらアルカイックスマイルの表情は観音の大慈悲をあらわす。何故これ程のものを創れるのかと考えた時、喜三郎が人体模型を造るために東校(現東大医学部)で1年間、腐臭の中で死体や解剖を見続けたことで、生きる事の意味や美しさとは何かをはっきり体得しそれを形作る技や術を高めついにはこのような生けるが如し人形を作るまでになったと推察した。 |
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▲松本喜三郎作「池之坊(頭部と手)」
松本喜三郎の一世一代の大作「西国三十三所観音霊験記【さいごくさんじゅうさんしょかんのんれいげんき】」十八番六角堂に用いられた池之坊の人形。 東京浅草で明治4年、大阪では千日前で明治12年(1879)に初興行され、当時の見世物番付には、稚児姿で現れた聖徳太子から、池之坊が座して生花の法を伝授される場面が描かれている。 この興行の人形はほとんどが海外に流出したと考えられていたが、平成12年に大阪市立博物館(現、大阪歴史博物館)の調査により高槻市内の民家で「池之坊」が発見され、寄贈された。今回の展示は、大正3年(1914)の最後の興行から90年ぶりの公開となる。 |
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取材・写真・Webデザイン:ストリート・アートナビ 中田耕志 |
※上記の説明、写真キャプションは記者発表、展覧会報道資料、展覧会図録等を参考にしました。 |
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