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蕪栗沼の名前の由来

蕪栗沼は約1万年前は、古松島湾と呼ばれる内湾の一部でした。海面の高さが現在より数メートルから数十メートル高く、現在水田となっている平 野はこの時代に形成されたと考えられています。

蕪栗沼から見た栗駒山

蕪栗沼の周辺には縄文時代の遺跡があります。旧迫川流域周辺には、縄文時代のはじめからおわり頃までの貝塚が約25か所あります。縄文時代初期の 層から発掘される貝は海水性のものですが、縄文時代中期から晩期の層から発掘される貝は汽水から淡水性のものに変わっています。これは縄文時代の 6000年の間に、ゆっくりと海水面が低くなり、海から平地に変わっていったことを示しています。この傾向が顕著に示されたのが、大崎市田尻蕪栗 にある中沢目貝塚です。

中沢目貝塚

田尻や南方、瀬峰、米山、涌谷、迫などの旧迫川流域は、縄文時代に海だった頃の蕪栗沼からとれた生きものを食べて人々が暮らしていたことが分かっ ています。外洋性のマグロの骨や、回遊魚のニシンを保存食として利用していた形跡も見つかっています。近くには有名な遮光器土偶が発掘された恵比 須田遺跡もあり、当時の日本の中では、かなり高い文化水準であったと考えられています。

遮光器土偶


大崎市に合併された旧田尻町の町史によると、江戸時代の古文書に「もと沼辺に大栗林あり、其の実は拳(こぶし)のようで、味は甘味、蔓菁(つ るかぶ)のようであった。世人は葛(くず)の菁(くずもちの材料?)を菁栗といったので、この名が出た」(1761年に仙台藩の儒臣である田辺希 文が編纂した「封内風土記」)とあいります。蕪栗沼のほとりに大きな栗の木の林が広がっていたため、その地域を蕪栗と呼んでいたようです。

一方、1776年に仙台藩は寮内郷村に書き出させた風土記「安永四年風土記御用書出」には「当村(蕪栗村)の熊野神社近くの畑に植えた蕪(かぶ) は、栗のような風味があったので、神名を蕪栗明神として崇め、やがてそれを村名に名付け候由、申し伝え候事」という記述があり、「栗のような味の カブがとれたので蕪栗という名前が付いた」となっ逆の説明になっています。

いずれにせよ、蕪栗という地域の近くにある沼なので蕪栗沼と名前がつけられたようです。しかし地元の人々は単に「大沼」と呼んでいました。