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◆デザインの小話_1◆

21世紀デザインランド
宮川友子

私は、日本人にとって、グラフィックデザインがもっと身近なものになれば、と願っています。例えば料理やスポーツがTVで語られない日が無いように、庶民のものでありながら、極めれば奥が深い、というのが理想です。
理由は二つあります。
一つは、みんなが賢い消費者になるから。
二つは、デザイナーが自分の国の文化に誇りをもてるようになるから。
あたり前ですが、世の中の大きな動きはお金持ちの大企業が握っています。企業がお金を出すから、政治や戦争やテレビ番組や雑誌広告があるのです。
だからその内容は、お金を出す企業にとって都合のいいものとなります。
例えば、テレビ番組で「マイナスイオン水で、健康美人!」というような内容のものが放送されている時、そのスポンサーは浄水器メーカーだったりします。また、航空会社がどこにお金を払うかは分かりませんが、飛行機の中で見られる映画の中では墜落をイメージさせるシーンがないはずです。
これはこれで、企業も半分は営業、半分はお客さんのためを思ってやっていることです。「うそは言っていないが、真実でない」話が多いことを、消費者は知っていてもいいと思います。消費者は、その人にとっての真実、つまり自分の視点をもつべきです。これは予想できますが、意外に難しいと思います。
例えば地球環境に関心を持っている人が、自動車のコマーシャルで「環境を大切にするプロジェクトを推進しています」と聞けば、このメーカーはいい、と思うかもしれません。しかし、本当に環境を大切にするのであれば、自動車など作らなければいいのです。そして乗らなければいいのです。現実はそうはいきませんよね。

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話は変わって夕べ読んだ本のことで恐縮ですが、脳の神経細胞のシナプスに関する内容ですが、「受け手が活発であれば、関係は築かれるのです」とありました。(海馬/p.283)逆にいえば受け手が受けなければコミュニケーションは成立しないということです。著者もいっていましたが、これは何にでもいえることだなと思いました。つまりデザインにおいても、です。
いまデザインをしている人は、自分でそのことが好きな人たちだけです。つまり私たちのことですが、この人たちは放っておいても何かは作りつづけるでしょう。
しかし、そうでない大半の普通の人たちは、このことに関して無関心であることが多いです。それをむりやり振り向かせようとするものを見るときがあります。
多くはグロテスクであったり、奇をてらったようなものです。一瞬は目を奪うかもしれませんが、飽きないようにすぐ、また別の刺激の繰り返し。
それでは文化は育たない。擦り切れてしまう。
こんな現状を、デザイナーではなくあえて消費者のせいにしたい。
今デザインの仕事をしていると、企業は景気の影響をモロに受けて、直接もうからない仕事は出さない、ということがとてもよく分かります。仕事そのものも出しませんが、もし出すとしても、その内容は消費者の財布をゆるめるためのかなり直接的な「恥も外聞もないもの」です。何を思ってデザインを要求するのかというと、ただ消費者を振り向かせるため、です。
企業のあせる気持ちはわかります。デザイナーも「自分のポリシーを出してはクライアントとやりとりしても、結局引っ込めないといけない」ということがわかっています。いちいちやりあうのがめんどうだから、始めからそれに合わせて卑屈なものを作る状況があります。
デザイナーは、お金を受け取ることを前提にデザインをします。また、それが仕事です。だから、たとえどんなに気高い意識をもって仕事に取り組んでも、お金をだすクライアントの「ご意向」に背いてはいられません。
これらをふまえて考えると、大切なのは消費者という受け手のあり方を変えることです。

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消費者はもっと、デザイン教育をされるべきです。
デザインを鑑賞・批判する力、問題意識、歴史、哲学、なによりもたくさん経験することは、消費者にとって大事なことです。
私の小中学校生活を思い返すと、美術の鑑賞をする時間は、何かを制作するのより楽だけどおもしろくなかった。そしてその時間は少なかったような気がします。
今ならその理由が分かります。教員に解説する力がなかったからです。
何かを作らせておいて点数をつけることは、教員にとってはとても楽です。しかしそれでは子どもにとって美術の食わず嫌いの原因になってしまう。
学生時代によく「絵のウマイ、ヘタで成績をつけてはいけないので、色々なことをやらせるべき」などということを考えたり話題にしました。立体ならいいとか、素材がどうとか、自然の中でとか…けれどその範囲ではまだ同じことです。
してほしいのは、デザイン鑑賞という「経験」です。そのためには教員が勉強しなければならない。楽ではない。しかし難しいことをする必要はない。教員の目で見た世界を子どもたちに伝えればよいのだから。
大学生になって、「こんなに学問っておもしろいんだ」、と初めて気がついたのは地理と美術史です。
もともと私は社会科があまり得意ではないです。それは、あまり生活と関係のないものを丸暗記しなければいけなかったからです。大学3年次で初めて出会ったその教授は、「分布論」という「方法」で地理を「理解」することを教えてくれました。もうあまり憶えていないのですが、例えば日本のコメの分布で歴史や地理を説明できたりします。 また、美術史では、美術鑑賞が自分の制作の何に関係があるのか解らなかったし、歴史も好きではなかったので苦手だったのですが、美術史の助教授は、「あるものとあるものを横に並べて比較することで、批評したり関係を理解すること」を教えてくれました。筋肉フェチやホモ(おかま?)など、ルネッサンスの巨匠がとても身近な人に感じたりしました。
どちらもとてもおもしろく、目からウロコでした。
両方に共通することは、かかえている情報の量がとても多く、しかもその人の理論に基づいてとてもキチンと整頓してある、ということです。
つまりそれは経験の積み重ねから学問が成立しているということです。
経験が増えれば比較でき、批判することができ、問題意識が生まれ、テレビで話題になり、ひいては最初に挙げた二つの点が解決に向かいます。

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おわりに、ここで提案したいのは、学校教育における図画工作・美術の時間を増やすべき、ということです。でも現状はどんどん減らされ、採用される教員も少ないようです。
せめて、12年間で「ロートレック」や「亀倉雄策」を聞いたり見たりした経験がある、と言えるくらいにはデザイン教育をすすめるべきだと思います。
今回は具体的に何がおもしろいのかまで書くことができませんでしたが、デザインを通じてお金や社会やコミュニケーションのあり方まで考えられるこの世界に、もっとたくさんの人が触れてくれたら、と思って書きました。
これを読んでいるそこの「先生」!子どもたちを楽しいデザインランドに連れていってあげてください。その時は必ず下勉強も忘れずに。

2003_2

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