僖urata dell'incubo - 4 -


クランスピア社へと向かう道中、ユリウスの親衛隊の横を通り抜けた時が一番面倒であった程度には、
道中何事も起こらず、ルドガーとユリウスはクランスピア社のエントランスへと踏み込んだ。
通路を進み、受付の前に立つヴェルの姿が見えるようになった頃には、周囲のどよめきが耳に届いた。

 「お疲れ様です、ユリウス前室長もご一緒だったのですね」

ルドガーとユリウスが揃って姿を現したことに周囲は驚いている様子があったものの、
出迎えるヴェルは別段驚く様子もなく、ルドガーも頷いて応じるのみだった。
周囲の気配を窺ってはみるものの、誰もユリウスを捕らえようとする様子はない。
まさかユリウスがこうも堂々と現れるとは思いもせず、虚を突かれた格好なのかもしれない。

ヴェルに促され、エレベーターで最上階の社長室へと3人で向かった。
エレベーターに乗っている間は会話もなく、最上階に到着して先導するヴェルに続いて社長室に足を踏み入れたところで、
ようやくとヴェルがこちらへと振り返っていつもの調子で話し始める。

 「念のため分史対策室でもビズリー社長の座標情報を追跡してはみましたが、お話の通り消滅が濃厚という結論が出ています」

さすがに話が通っていたとしても調査ぐらいはするだろう。
ヴェルの言葉に対して、疑われていたのか、という落胆をルドガーは感じなかった。
寧ろ分史対策室の調査結果としてもそういう結論に至ったということであれば却って話は早い。

 「そのため、ご連絡した通りこのクランスピア社の指揮権は、ルドガー副社長に一任されることになります」
 「……じゃあ、早速やってもらいたいことがあるんだけど」

この早々の切り替えしは予想していなかったのか、ヴェルは一瞬驚いたように目を見開いた。
同じく、ルドガーの隣に立っているユリウスも、彼女に向けていた視線をルドガーへと向ける。
そんな2人の反応を気に留めることもなく、ルドガーは言葉を続けた。

 「兄さんの、ユリウスの指名手配の件を何とかしたい」
 「お前……」

開口一番その話が出てくるとは思いもよらなかったようで、ユリウスの零した声には驚嘆が色濃く表れていた。
しかしルドガーがこの場にわざわざ赴いたのはこのためだ。
真っ直ぐとヴェルを直視しながら、彼女の反応を待つ。

 「……元々、ユリウス前室長の指名手配は、ビズリー社長による証言に基づくものです」
 「それなら……クランスピア社として証言の取り消しはできないのか」
 「そうですね、ルドガー副社長がビズリー社長の後任としてクランスピア社社長に就任されるのであればあるいは」

クランスピア社の社長という立場からの証言を覆すには、相応の立場からの撤廃が必要となる。
副社長どころでなく社長か、と思いはしたものの、現状クランスピア社の指揮権がルドガーにあるとすれば、
誰かに社長の座は譲るという選択肢が失われはするものの、今の状況とはあまり変わらないのかもしれない。

 「わざわざ自分から重荷を背負う必要はない、無理しなくていいんだ」

心配そうな声色でユリウスがそう言いながら、ルドガーの肩へと手をかける。
オリジンの審判が終わりビズリーが消滅した今、クランスピア社に深く関与することによって窮地に瀕するようなことはないだろう。
何より、副社長として指揮権を持つよりもいっそ社長という地位に就いてしまったほうが何においても安泰なのだ。
ユリウスのことも、そしてルドガーにとっても。

マクスバードでの一件に関しては、トリグラフの様子を垣間見た限りではまだ騒ぎにはなっていないようだった。
とはいえ一国の国王と宰相の死ともなれば、いずれは公になりかねない。
しかしその際に、仮にルドガーへ嫌疑がかけられたとしても、クランスピア社の社長として就任してしまえば
エレンピオスおよびリーゼ・マクシア両国の軍部も安易にはルドガーへ手出しをできなくなるだろう。

 「ヴェル、指名手配の件よろしく頼むよ」
 「お前……本気なのか」
 「それは、"そういう意味"と捉えてよろしいのでしょうか」

驚愕の声をあげたユリウスの手が、ルドガーの肩のうえで僅かに強張る。
兄としては己のために、ルドガーにわざわざ蛇の道を選ばせたくないのだろう。
その気持ちは理解しながらも、ルドガーはヴェルの確認の言葉に対して頷いて応じた。

これはユリウスのためであり、同時にルドガー自身のためでもあった。
ユリウスを守り、そして彼との生活を守るためにはクランスピア社の社長という堅牢な防壁で自身を守らなければならない。
あの日の、マクスバードでの選択を貫き通すためには、避けて通れないのだとルドガーは改めて意を決した。

 「列車テロはアルクノアの単独行動であって、クランスピア社で独自に調査を継続した結果、ユリウスの関与は認められなかった、と」
 「では、そのように……急ぎ手配を進めておきます、ルドガー社長」

ヴェルは一礼した後、足早に社長室の外へと姿を消した。
扉の閉まる音が響いてから、部屋の中はしんと静まり返る。
その静寂にルドガーが少しばかり息苦しさを感じ始めた頃合、
片方の肩だけ掴まれる格好となっていたルドガーを体ごとユリウスが己に向かいあわさせ、両肩を掴んだ。

 「お前は、クランスピア社の社長という重責を本当に理解しているのか」
 「分かってるよ、兄さん」
 「ならどうして」

どうしてそんな道を選んだ、とユリウスがルドガーの顔を覗き込むように背を屈め、強く肩を揺さぶる。
ルドガーとユリウスの2人であれば、どこまでも逃げることだってできたのではないか、
すでに重いものを抱え込んでいるルドガーが、これ以上の重荷を背負い苦しむ姿など見たくはない、
ユリウスが半ば懇願するかのようにルドガーへ訴えるが、それでもルドガーは首を横に振った。

 「俺は兄さんに守られてきた、でもだからこそ俺は兄さんを守りたいし、兄さんとの生活も守りたい」
 「もう十分だ、十分お前は……」

ぐい、と肩を引かれてルドガーはユリウスの腕の中に納まる。
ユリウスの肩越しに見える、窓の外の空は先ほどまでは雲が多いなりに青空も見えていたが、すっかり厚い雲で覆われていた。
雨が降り出しそうだ、とぼんやり考えながら、ルドガーはゆっくりと目蓋を閉じ、深く息を吸い込む。

 「あの日の選択を無駄にしないためなら、兄さんとの時間を守るためなら、俺は何だってする」

そう、何だってするのだ。
仲間の命をこの手にかけることも、権利を行使して兄を守ることも、地位を利用して自分を守ることも。
そしてその権利と地位を守るためであれば、血の滲むような努力を求められても厭わず、こなしてみせる。
これが、自分の選択に対する責任の取り方なのだ、とルドガーは自分自身に言い聞かせるかのように呟いた。

すべては、大切な、大切な、愛しい兄のために……。



若きエージェントの副社長就任は、ほんの数日で社長就任へと内容が移り変わり、
その話題はトリグラフを中心としてエレンピオス全土へと伝わり、そしてリーゼ・マクシアへも広まりをみせた。
人々の好奇の目を一身に受けながらも、ルドガーは死に物狂いでありとあらゆる知識を吸収し、
当初はその若さ故に難色を示す人間も多かったものの、そう長い月日をかけずとも、彼は一目置かれる存在となった。

しかしあのマクスバードでの虐殺事件については、未だ両国軍が水面下で状況調査を進めているため表沙汰にはなっていない。
過日クランスピア社へマルシア首相自ら来訪し調査協力の要請があった折、ルドガーはあえてその要請を快諾した。
カナンの地が出現していた状況においては、"何が起きたとしてもおかしくはなかった"のだから。

 「ルドガー、居眠りしているとまたヴェルに怒られるんじゃないか」

クランスピア社の社長室、デスクの椅子に浅く座り膝の上のルルを撫でているうち、ルドガーは意識が飛んでいたようだった。
重たい目蓋を持ち上げれば呆れ半分に微笑むユリウスがルドガーを見下ろしている。
最近は黙々と勉学に励み、学生時代よりも余程真面目に取り組んでいるのではないかという状況の中、
睡眠時間がどうしても不足してしまい、日中の空いている時間にルドガーの意識が途切れることが増えていた。

 「……睡眠学習だよ」
 「って、前に言い訳をして、盛大な溜め息をつかれていただろうに」

わしゃり、とユリウスに髪を撫でられてルドガーは苦笑した。
ユリウスの手が離れたところで手櫛で髪を整えながら、椅子に座りなおす。
膝の上で丸くなって寝ていたルルも目が覚めたようで、デスクへと乗りあがると欠伸をした後に体を伸ばした。

ルドガーが社長に就任したその日、ユリウスの指名手配は解除となり、今ではクランスピア社の副社長という席に落ち着いている。
傍から見れば年齢的にも経歴としても立場は逆ではないのか、と疑問の声が上がるのも当然であり、実際そういった声はあった。
それでも、公にし難い部分ながら、ルドガーのエージェントとしての実績は分史対策室の人間ならば誰でも知っていることであり、
何よりユリウスがそういった声を陰ながら窘めてくれていることもあって、現状では反感の声もなりを潜めている。

 「頑張りすぎじゃないか」
 「まだ足りないぐらいだよ」

深く息を吐きながら、ルドガーはデスクに積まれている書類の山を眺めた。
新事業の立案書、製品開発の内容精査、エージェントからの報告書、全部目を通さなければならない。
そしてユリウスという相談相手はいるものの、その内容の合否判断もルドガーの仕事だ。
ただ見ればいいだけという話ではない。

 「兄さんがいてくれるから、まだ頑張れる」

徐に椅子から立ち上がり、縋るようにルドガーはすぐ横に立っていたユリウスへ抱きついた。
この温もりのためならいくらでも努力は惜しまない、大丈夫まだやれる、そう自分に暗示をかける。
支えるようにして背にまわされたユリウスの腕が、優しくルドガーを包み込んだ。

 「ルドガー」

穏かな声色の中にどこか甘みを湛えたユリウスの呼びかけに、彼の肩口に寄せていた顔をルドガーはあげる。
見上げる格好でユリウスを見遣れば、ゆるり、ゆるりと次第に縮まる距離。
自然とルドガーの目蓋が閉じられた。

 「……ルドガー」

再び名前が囁くように呟かれた後、その温もりはふわり、とこめかみに触れ、閉じた目蓋に触れ、頬に触れ。
そこまでの時間が酷く長く、ルドガーには感じられた。
今回はまだ続きがあるのではという期待をしてしまった反面、いつも通りここまでなのだろうという名残惜しさとで
ルドガーが思わず目蓋を持ち上げた頃合、不意打ちのように唇に触れるその感触に、一瞬体が強張った。

思わず見開いてしまった視線の先、間近に迫るユリウスの目蓋がゆるりと持ち上げられる。
澄んだアイスブルーの瞳は、ルドガーを慈しむような眼差しで見つめていた。
脳内の芯が焼き切れてしまうのではないか、とそんなことを考えてしまうほどに押し寄せる感情は熱を帯びる。
背にあったはずのユリウスの腕が片方、すっと位置を下げて腰を引き寄せられた。

決して深いものではなく、間もなくして微熱を残して温もりは遠ざかっていったが、ルドガーの思考を停止させるには十分すぎた。
呆然と見上げたままでいるルドガーの頬を、微笑むユリウスの手が撫でる。
そうしているうちに、段々と思考回路は巡りはじめ、ルドガーは急に顔が熱くなるのを感じた。

 「あ、いや……何して……っ、ヴェル来たらどうするんだよ」
 「はは、何だ、嫌だったか?」
 「嫌じゃないけど、って、だからそうじゃなくて」

待っているみたいだったからつい、などとまるで悪戯の成功した子供のようにユリウスが顔を綻ばせている。
確かに期待する気持ちがあったのも事実で、とはいえどうしてこうなったのか。
目前に迫ったあの透き通るような空色が脳裏に焼きついて離れない。
急激に恥ずかしさの芽生えたルドガーは、その顔を隠すかのようにユリウスの肩口へと顔を埋めた。

 「頑張っているルドガーへのご褒美……といいつつ、俺がしたかっただけなんだが」

そんなことをユリウスが笑いながら零し、ルドガーの後ろ髪を撫でる。
目の前には仕事の山、自分の処理能力ではまだまだ時間がかかるほどの量があるというのに、
今日は早めに切り上げてトマトソースパスタでも作ろうか、などと考え始めるルドガーがそこにはいた。



選択したのは茨の道、そして進むは蛇の道。

あれだけの惨劇を通過してなお、今をただただ幸せだと思う自分は気が狂っているのだろう。
それでも、自分の足跡が緋色に染まっていたとしても、選んだことを後悔せず、先の見えないこの道を踏みしめ進むだけだ。

例えこの身を深紅に染め上げようとも、愛しい貴方のいるこの世界こそが、かけがえのないものなのだから。


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悪夢の先に見た"ルドガーの世界"。

兄弟によるクランスピア社共同経営というオチが、血まみれの兄弟から自分なりに最大限幸せな方向に持っていった結果でした。
ユリウス助かるにはあと2人時歪の因子化しないとならないとなると、こういう話しか思いつかなかった……。
でも私はエル好きなんですよ、ほんとですorz
できあがってみると、フェイト・リピーターとヴィクトルの分史世界が入り混じった感じになってた……とか……。