僖urata dell'incubo - 3 -


気持ちを切り替え、ひとまず朝食を作ろうとキッチンに立ったところで、
そういえば朝刊をとりにいかなければ、とルドガーは思いおこす。

 「……行くか」

部屋着のまま外へ出た日にはさすがにユリウスにお小言のひとつも言われかねない。
ルドガーはキッチンを離れて自室へと足を向け、部屋の外へ出られる格好へと着替えた。

1階のポストへと朝刊を取りに行って戻ってくるまでの間には特に何事もなく、
ルドガーが部屋へと戻ってくるときっちりと服装を正したユリウスが彼の部屋から出てくるところだった。
さすがに上着は着れる状態ではないため羽織っておらず、唯一そこだけがいつもと違う。
だとしても、そこには何の変哲もない日常の光景があり、ルドガーは玄関先で立ち尽くした。

 「朝刊を取りにいってたのか」
 「あぁ、兄さん読むだろうと思って」

ルドガーの言葉を聞いて、ユリウスはやんわりと微笑んでひとつ頷いてみせる。
しかしそのまま玄関で立ち止まっているルドガーに僅かに首を傾げた後、
ゆったりとした足取りで、ユリウスがルドガーの目前へと歩み寄った。
そんな彼をルドガーが見上げると、ぽすん、と頭上に温かい感触が落ちてくる。

 「どうした、ぼんやりして」
 「いや……何か、この感じ久し振りだなっていうか」

ユリウスがいて、ルドガーがいて、そしてルルがいる、極々普通の、それでいて心地よく穏かな、ありふれた日常。
以前はこれが当然のことであったというのに、今ではこの平穏な時間がただただ無性に愛しく思えた。
そんなことを考えながらルドガーが困り気味に笑うと、わしゃり、とユリウスの右手がルドガーの髪を撫でる。

 「……これでも読んでて、朝ごはん作るから」
 「ん、そうするよ」

ぽす、とユリウスの胸に朝刊を押し付けると、ユリウスの左手がそれを受け取る。
髪に触れる彼の手に名残惜しさも残しつつ、ルドガーはユリウスの横を通り抜け、キッチンへと向かった。
籠に積まれたトマトの数は少ない、あとで買いにいかなければ、などと考えながら手を伸ばす。

熟れたトマトを手にして、一瞬その深い深い緋色が脳裏に焼き付く凄惨な景色をフラッシュバックさせた。
自然と手に篭もってしまった力のせいで、トマトを握りつぶしそうになっていることにはっとして頭を横に振る。
今は朝食だ、うんと気持ちを込めて、美味しい朝ごはんを作ろう、とルドガーは深呼吸をひとつしてからトマトを水で洗いはじめた。



やっぱりルドガーの料理は美味いな、なんて嬉しそうに笑うユリウスに、
ルドガーも嬉しいやら泣きそうやらで、どうにか笑って応じることが精一杯だった。
ユリウスと向かい合って朝食をとるこの時間が、こんなにもかけがえのない大切なものだったのか、と改めて思い知らされる。

 「何だ、もう食べ終わったなんて随分と早いな、ルル……まったく、ちゃんと噛んで食べたのか?」
 「ナァ〜」

今日はロイヤル猫缶を特別に開けよう、といってユリウスがルルのお椀に缶詰の中身を空けてまだまもないが、
ルルがテーブルの方へとやってきたということは、すでにすべて食べ終わってしまったのだろう。
ユリウスの膝の上へとルルが乗りあがって大きな欠伸をしている様子がルドガーの視界に映った。
お腹一杯になってまた眠くなってしまったのか、と思わず笑ってしまう。

ルルはそのままユリウスの膝の上で丸くなり、空いている方の手でユリウスがルルの頭を撫でた。
すっかり身動きの取れなくなってしまった兄の代わりにルドガーは立ち上がり、
空になっていた2つのカップに湯気の立ち昇るコーヒーを注いだ。
ポットをコンロに置いてから席に戻り、食べかけのトマト入りオムレツに再び手をつける。

 「……」
 「……」

新聞を捲る音、換気扇のまわる音、スプーンが皿に触れる音、カップを持ち上げてテーブルへと置く音。
音こそあるものの特に会話もない、そんな静かな空間だというのに心地よさだけが満ちていた。

しばらくしてルドガーが食べ終えた頃合、先に食べ終えていたユリウスが新聞をたたんでテーブルへと置く。
そして白いカップに注がれたコーヒーの残りを飲み干して、元の場所へとこつり、と降ろした。

 「片付けたら行くんだろう」
 「うん……一応ね」

別段クランスピア社に対しては今特に思うところもなく、"副社長として"という使命感もない。
そもそも副社長という立場を与えられて早々、本社の外へ出すまいと妨害されるという状況に陥っていた手前、
ルドガーにしてみれば自分自身がそういう立場であるという実感もなければ自覚を持てと言われても無理難題だ。

それでも一応は行こうとルドガーが思うに至った理由はあった。
確かにいきなりクランスピア社の指揮権が渡されても困りはするものの、
一方でそれは"利用の余地があるのでは"と考え始めているルドガーがいた。
例えばそう、ユリウスの指名手配をどうにかすることだってできるのではないか、と。

 「だったら俺も一緒に行こう」
 「え、でも兄さん指名手配されてるのに大丈夫なのか?」
 「はは、それで捕まるならとっくに捕まっているさ」

そう言われてしまっては、確かに、としかルドガーとしても答えようがない。
仮に追っ手が来たとしてもどうにかなってしまうとも思えず、
何よりユリウスと少しでも離れることが嫌だという気持ちもあって、ルドガーはユリウスとともにクランスピア社へ向かうことにした。



食器をシンクにさげて洗い流した後に出かけ支度を済ませ、2人揃って部屋の外へと出る。
後から出たルドガーが部屋の鍵にロックをかけ、ユリウスと並んでエレベーターへと向かった。
考えてみればこうしてユリウスと揃って家を出る、しかも目的地がクランスピア社という状況は、
かつてのルドガーが目指していた姿で、今になってそれが実現したことに思わず苦笑いを浮かべる。

 「ん?」
 「あぁいや、兄さんとクランスピア社に向かうなんて日が来るなんてな、って思っただけ」

3階にあがってきたエレベーターに乗るユリウスの後に続き、ルドガーは問いかける声に応じながら1階のボタンを押した。
がしゃん、と音をたてて扉が閉まり、エレベーターが下へと降りていく。
隣では、入社試験を不合格にしてしまったしな、とユリウスが困り気味に笑っている。

今更あの入社試験でのことをあれこれ言うつもりなどルドガーにはない。
もとより、クランスピア社に入ることによってルドガーが一連の出来事に巻き込まれることを回避するために、
ユリウスがルドガーを落としたのだろうということぐらいは、さすがに今となってはルドガーでも察しはついている。

 「あら、ユリウス君じゃない、帰ってたのね」
 「あー……大家さん、ご無沙汰しています」

1階に到着したエレベーターの扉が開くと、目の前には大家の女性が立っていた。
心配していたのよ、と畳み掛ける彼女に、ユリウスは心底申し訳なさそうに眉尻をさげている。
彼女は随分とユリウスのことを気にかけていたから、彼の姿を見て本当に安心したのだろう、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

ユリウスがテロの首謀者のはずがない、信じているから、と声をかける大家に礼を述べてから、
ルドガーとユリウスはマンションフレールの外へと向かう。
揺れるブランコ、小さい子供達の声、ベンチに腰掛けるひとたちの話し声、ここもまた日常で満ちていた。

 「さて、厄介なことになる前に急いで向かうとしよう」
 「あぁ」

どうとでもなるとはいえ、騒ぎにならずに済むのであればそれに越したことはない。
ルドガーとユリウスは足早にクランスピア社を目指して歩き始めた。


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たぶん次で区切り・・・だと思う。