僖urata dell'incubo - 2 -


自分は一体どんな顔をしていたのだろうかとルドガーは考える。
目の前にいるユリウスは酷く驚愕した様子でルドガーのことを見つめていた。

少しばかりの沈黙の間を置いて、ユリウスがベッドに突いていた自身の左手を目の高さまで持ち上げる。
時歪の因子化が進んでいたことが嘘のように、その手の色は人の肌の色。
火傷の跡を残した、ユリウスの手そのものだった。

 「分史世界も消えて、兄さんも助かったんだから……これで、よかったんだよな」

ぽつり、とルドガーはそう零した。
これが自分の願った、選んだ道なのだ、と自分自身に言い聞かせるかのような言葉。
いくら洗い流しても決して消えることのない緋色に染まりあがったこの現実から、ルドガーは目を背けようとしていた。

 「ルドガー」

ユリウスの声は僅かに強張ったそれで、彼の左手に右腕を引かれてルドガーの体が傾く。
とすん、とユリウスの腕の中へと倒れ込み、強く、強く、彼の腕がルドガーを抱きしめた。
頬を寄せ、耳元で再び名前を呼ばれると、半ば朦朧としていた意識が戻ってきたように感じる。

 「お前には、辛い思いばかりさせているな」
 「兄さんのせいじゃ、ない」

これは自分の選択、ユリウスが罪悪感を感じる必要などこれっぽっちもない、そうルドガーは思っていた。
そもそも、ユリウスは魂の橋となる道を、本来正しかったはずの道を選んでいたのだ。
そんな兄の選択を握りつぶしたのは他でもないルドガーであって、
結果としてルドガーがどんなに辛い思いをしたとしても、ユリウスに非などない。

GHSを膝の上に置いて、ルドガーは両腕をユリウスの背へと伸ばした。
顔を寄せたユリウスに耳元でまた名前を呼ばれている。
直接ルドガーの耳に流し込むかのように耳へ触れて動くユリウスの唇がくすぐったく、俄かに顔が熱くなる。

 「……大丈夫、俺は兄さんがいてくれるだけで、十分だから」

以前から兄弟としては仲がいい方であったとはルドガー自身も思うものの、前からこうだっただろうか。
幼い頃から優秀であった兄と比べられたり、兄を褒められるたびに最近では複雑に思うことも多かったものの、
それでもやはり大切な兄であって、そして……そして?、とルドガーは考え込む。

そんな思考を断ち切るかのように、ルドガーの膝の上でGHSが再び振動した。
ユリウスの時歪の因子化がリセットされた以上、再びエルから通話がくるとは到底思えない。

 『ヴェルです、ご無事のようで何よりです』

ユリウスの顔が離れたところで、改めて開いたGHSを左耳に添えるとヴェルの声が聞こえてきた。
いつも通りの調子の口調と声色でありながら、どこか疲れているような、
あるいは何かに落胆しているような、そんな様子が窺える。

 『分史対策室ではすべての分史世界の消失を確認しました。ですが、ビズリー社長との通信が途絶えています』

何かご存知ではないですか、と問いかけるヴェルにルドガーは短い言葉で応じた。
エルからGHSで連絡があったこと、ビズリーが時歪の因子化により消滅したこと、
そしてエルがオリジンに分史世界の消滅を願い、ビズリーと同様に消滅したであろう、ということを伝える。

 『そうですか、ビズリー社長が……』
 「それと、エルの消滅で時歪の因子の上限値に達したらしい」

ルドガーは淡々とした調子で、事の次第をヴェルへと話した。
自分の声からは感情らしい感情が欠如しているとルドガー自身感じながらも、別段気にも留めず話を進める。
髪に触れるユリウスの左手がゆっくりとした手つきでルドガーの髪を梳いていく。

 『状況は把握しました、ご足労かけますが後程本社までお越しください』
 「……本社に?」
 『ビズリー社長が死亡した場合、クランスピア社の指揮権は副社長である貴方にありますので、今後についてお話を』

そういえばそんな役職を与えられていたか、と随分と昔のことを思い出すかのようにルドガーは思った。
確かに社長がいなければ副社長、となるのも理にかなっているが、よりにもよってこんな状況の自分が、
エレンピオス随一の大企業であるクランスピア社の指揮を執るなど到底無理な話だと思わずにはいられない。
そんなルドガーにはお構いなく、ヴェルは短く礼をしたのちに通信を切った。

 「ヴェルが、本社に来てくれって」

GHSを閉じて膝の上に放り、ルドガーはユリウスに寄りかかったまま上へと顔を向ける。
見上げたユリウスの顔は眉間に皺がよっていた。
この状況でクランスピア社へ出向くようにと言われることについて、疑心にかられているのだろう。

 「道標を揃えたあと、知らないうちに副社長にされてたから、それのせい」
 「……そういうことか」

ルドガーの説明を聞いてユリウスも状況を理解した様子だった。
枕元で眠っていたルルも目が覚めたようで、ベッドの上をのそのそと歩いてルドガーとユリウスの間へと潜り込んでくる。
ブラインドの隙間からは陽の光が差し込んでおり、とっくに朝を迎えていたのだと今になって気づいた。

 「朝ごはん、サラダとトマト入りオムレツでいい?」
 「あぁもちろん、ルルにも朝ごはんを用意しないとな」
 「ナァ〜!」

朝ごはん、という言葉に反応したのか、もぞもぞと2人の間に潜り込んでいたルルがベッドの下へと飛び出した。
その後を追うようにしてルドガーがベッドから足を降ろそうとしたところで、ぐいとユリウスに引き止められる。
どうしたのかと、ドアの方へと向けた顔を再びユリウスへと向け、見上げた。

不意に近づいてくるユリウスの顔に、半ば条件反射的にルドガーは目を瞑った。
目蓋に触れた温かな感触には覚えがある、昨日眠りに落ちる直前にこめかみへと触れたそれと同じだ。
そしてその温もりの正体に気づいたルドガーは、はっとして目を見開いてユリウスを見つめた。

 「朝の挨拶がまだだったな……おはよう、ルドガー」
 「……おは、よう……兄さん」

ヴェルからの通話で途切れた思考の続きが頭を過ぎる。
ユリウスは大切な兄であって、そして、そういうことか、とルドガーはひとつの結論にたどり着いた。
よもやユリウスに対する感情は、兄を想う弟と表現するには質が異なってきている。
きっとそれはユリウスも同じなのだろう、と期待半分、確信半分にルドガーは思った。

感覚が麻痺している。
目の前のこと以外、すべてどうでもよくなってきている自分がいた。
ルドガーはユリウスの顔へと右手を伸ばし、彼の左頬へと添える。
対の頬へと顔を寄せて短い口付け、照れ隠しにベッドを飛び出してキッチンへと向かった。

もう二度と迎えることがないだろうと思っていた、兄弟2人と猫1匹の朝の景色がそこにはあった。


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ようやくカップリングっぽくなったような、そうでもないような。