ブラインドの隙間から見えた朝の空は綺麗に澄み渡る青で、
ユリウスはルドガーとともにそのブラインドを一気に上げた。

雲ひとつない綺麗な空、眼下のマンション・フレール前の広場には朝から子供たちの声が響いている。
よく知っている、それでいて懐かしさや愛しさすら感じる、平穏な日常がそこには広がっていた。
そして気づかぬうち、ユリウスとルドガーの足元にはルルが擦り寄ってきている。

まるで、昨日までのできごとがすべて夢の中のことで、今は正史世界のあの幸せな日々に戻ってきたかのようで。
それでも、隣で同じように驚いている弟の姿に、そううまいことはいかないのだと思い知らされる。


La porta del cuore ― 4 : ルドガーの世界 ―


この世界が開けて数日が経過した。

ルドガーを伴い、この世界を散策してみて分かったことがいくつかある。
特に重要なものとしては、ここではリーゼ=マクシアとの狭間にまだ断界殻が存在している、という事実だ。
何故あえてその頃の世界となっているのか、純粋にその頃がルドガーにとって幸福な日々だったということなのだろうか。

そしてもうひとつ、気になることがあった。
正史世界でルドガーと共に行動していた彼らの姿が、ここにはひとつとして存在していない。
ユリウスの把握している情報の限りでは、断界殻が消えないことには彼らと接触することは不可能だ。
大切な友人であっただろう彼らと乖離したこの世界に、ユリウスの疑問は晴れずにいる。

 「何か考え事?」

ふいにかけられた声に、ユリウスは顔を上げた。
思考に耽っているうちに少しばかり俯き気味になっていたらしい。
ソファに座っているユリウスを見下ろすようにして、すぐ目の前に立つルドガーが視線を投げてきた。
膝の上で丸くなっているルルの背をゆっくりと撫でながら、ユリウスは微笑でルドガーの視線に応じる。

 「あぁ……どうしてここでは断界殻があるのか、気になってしまってな」

この世界の仕組みはすでに明白で、ルドガーの心持ひとつで変化が生じているようだ。
そして今、ユリウスの回答を聞いた彼は少しばかり表情を強張らせ、その気配を揺らがせている。
もしかしたら、あの断界殻の存在は何かしらかを否定する気持ちの表れなのではないか、
漠然としてはいたもののユリウスはそう感じた。

 「……断界殻があった頃が、俺にとっては幸せだったから、かな」

決して嘘を言っている様子ではなかったし、実際そういった理由によるものである可能性はユリウス自身も考えてはいた。
しかしどこか腑に落ちない、その原因はやはり"彼ら"の不在なのだろう。
いまいち納得がいっていないという状況がルドガーにも伝わったのか、彼は苦笑しながらユリウスの隣へと腰を降ろした。

 「まぁ、兄さんにしてみれば断界殻があった頃となくなってからとで、そう変わらないんだろうけどさ」

曖昧に笑ってみせるルドガーを見るに、何かしらかまだ思うところはあるのだろうとは察しがついたものの、
何もすべてを曝け出させることが正しいとは言い難く、ユリウスは気づかなかったフリをして彼の頭をわしゃりと撫でた。
もし彼にとってそれを吐き出すことが最善であるという状況に陥るのであれば、そのときには改めて聞けばいい。
髪がくしゃくしゃになるまで撫でてやると、セットするのは大変なんだぞ、と涙目ながらに訴えてくる弟と視線が交わった。

 「ははは、悪かった悪かった」
 「まったくもう……っとそうだ忘れてた、買い物行こうって言いにきたんだった」

すっかり記憶の彼方へいっていたらしい買い物のことを思い出したルドガーが捲くし立てるようにしてそういい放ち、立ち上がった。
一緒に行こうと言われて断る理由などあるはずもない。
外へ出るのであれば外出用の服に着替えなければ、とユリウスもまたソファから立ち上がり、膝に乗せていたルルをソファへ降ろした。
気持ちよく眠っていたところ、ぬくもりが離れることに不満そうなルルの声が耳に届き、ユリウスは苦笑しながらその背を撫でる。

早く着替えて、と急かす声に相槌を打ちながらユリウスは自室へと入り、手早く服装を改めた。
上下ともに着替え終え、あとはコートを羽織るだけだ、と着慣れたそれに袖を通そうとした折、
しゅっとシャツとコートの生地が擦れる音が耳に届いたところで、ユリウスはふとした違和感に見舞われる。
僅かに首を傾げ、視界に捉えた―否、捉えられるはずのものがそこにないことに気がついた。

 「ん?」

袖の先から本来ならば見えているはずの左手が、ユリウスの視界には映っていなかった。
ブラインドが下ろされているせいで日中ながらも薄暗い私室、とはいえど己の手が見えないほどの暗がりではない。
ユリウスはぎゅ、と瞼を瞑り、そして開くことを数回繰り返し、その何度目かの頃合になって、ようやく己の左手を視界に捉えた。

視線の高さまで持ち上げた左手は、何事もなかったようにそこにある。
しかしながら、この状況を冷静になって考えてみれば、嫌な予感しかユリウスの脳裏には浮かばなかった。
本来ユリウスはここの世界には存在するはずのない存在でしかなく、何よりも一度は命を落とした身だ。
一部とはいえ己の姿が視界に映らないという状況を前にしては、そろそろ潮時だと告げられているような心持になる。

 「……まいったな」

そう呟いてはみたものの、もとより今の状況が奇跡に近いことであるとユリウス自身も理解はしていたことだった。
だからこそなのか、困惑の感情がないというわけではないものの、一方で心穏やかでもある。
残りの猶予はどれ程のものなのかは分からないが、少しでも愛しい弟の傍に在ることができれば、と思わずにはいられなかった。

 「兄さん、準備できた?」

扉越しに聞こえてくるルドガーの声には待ちくたびれたとでも言わんばかりの様子が汲み取れて、ユリウスは小さく笑った。
これでは早く遊びにつれていってくれと親に強請る子供のようではないか。
きっと彼の言い分は、いい食材が売り切れる、だったり、料理する時間のことも考えろ、だったりするのだろう。
そんなことを考えながら持ち上げていた左手をすっと降ろし、ユリウスはリビングへと足を向けた。



そうはいってもしばらくは、否、せめて数日はもつだろうとユリウスは無意識ながらに思ってしまっていた。
もとより、そうあってほしいという願望でしかなかったのかもしれない。
しかしどうにも、もう猶予は残っていないらしいとユリウスが思い知らされるまでには、そう時間を要さなかった。

ルドガーと並んで歩く商業区への道のりは、一歩また一歩と進むにつれて、
まるで泥濘を進んでいるかのように酷く足取りが重たく感じられて、ユリウスはいやがおうにもその現実をつきつけられていた。
努めて、隣を歩く彼にその事実が伝わらないよう、他愛もない会話に花を咲かせる。

 「んー今日はトマトシチューにしようかな」

でもシチューの季節でもないかな、とルドガーが首を傾けながら唸った。
彼の料理なら季節柄など気にせず何でも大歓迎だと思っているユリウスからすれば、
この日の夕食が少しばかり時期のずれたシチューであったとしても何ら問題などない。

そもそもこの状況で夕食までもつのだろうか、という点がユリウスにとっては甚だ疑問ではあった。
冷静にそんな問いを己に投げかけているあたり、我ながらどうなのだろうかと内心苦笑を禁じえない。
名残惜しさがないと言えば大嘘で、とはいえどもこの状況がいつまでも続くと信じることもできずにはいた。
この世界がおぼろげで、非常に不安定な足場の上に成り立っていることをユリウスは十二分に理解しているからだ。

 「そういえばそろそろカリカリがなくなるんじゃないか」
 「じゃあそれ買ったら帰ろう」

ちょっと行ってくるから待ってて、と言い残してルドガーが雑貨屋へと駆けていく。
時刻は夕暮れ、空は茜色に染まり、その陽光の中にユリウスは愛しい弟の後姿を捉えた。
店頭にあるカリカリを彼が指差すと、店員は手に缶詰らしきものを持って、それを指差して何かを言っている。
向かい合うルドガーの首が僅かに傾いている様子を見るに、ロイヤル猫缶でも進められて考えているのだろうか。

そんな光景を少し離れた場所から眺めていると、ふいに視界が青白い光に滲みはじめる。
やれやれ、またしてもルドガーの手料理を食べ損ねてしまうのか、と心のうちでユリウスはぼやいた。
ルドガーはまだ店員と話を続けている、願わくは、そのまま振り返らないで欲しい、名残惜しくなってしまう。

 「……ルドガー」

ぽつりと零したその名前は、周囲の喧騒にかき消されて彼には届かなかった。
ふいに吹き抜けた風が、ユリウスのコートをはためかせる。
ゆらりゆらりと陽炎のように揺らめく視界、ユリウスはゆっくりと瞼を閉じた。



重たく閉じられていた瞼をゆっくりと持ち上げる。
そこに広がるのはトリグラフの町並みと人の波、そして雑貨屋の店員から紙袋を受け取るルドガーの姿があった。
ないはずの記憶が当然のようにそこにあり、"ユリウス"は袋を抱えて振り返る弟に微笑みかける。

 「カリカリだけでいいって言ったのに、ロイヤル猫缶安売りしてるからって勧められちゃってさ」

困り顔ながらに笑顔で、駆け寄ってきたルドガーが言う。
まるで自分自身がずっとそうしてきたかのように、ここに至るまでのすべてを"ユリウス"は知っていた。
そしてそんな自分を目の前で袋抱える彼が望んでいることすらも、理解が及んでいる。
だからこそ、"ユリウス"はごく普通のことのように、ユリウスの続きをはじめた。

 「こっちではルルのダイエットをどうにかしたかったんだがな」
 「うーん、まぁ今日はカリカリだけにするとして、閉まっておくか……ロイヤル猫缶」

大きくため息をついたルドガーの背をぽん、と撫でた。
はやくトマトシチューが食べたいから帰ろうと促せば、彼も頷いて応じる。
ふたりの影が伸びる帰り道、足取りは軽く、今日の夕食の話からルルのダイエット計画の話まで、あれこれと言葉を交わした。

ルドガーに気づかれないように、"ユリウス"はユリウスを演じる。
ユリウスがどれ程に彼を大切に想い続けてきたかを知っているし、"ユリウス"もまた彼を大切に想う兄であることに変わりはないのだ。
だからこそ、ユリウスを演じ続けながら、決して彼に悟られてはいけないと理解している。

 「とはいえ、あまり急に量を減らすとルルが可哀想じゃないか」
 「そうやって甘やかすから、いつまでたっても体重落ちないんだろ」

兄さんは甘い、と隣を歩くルドガーが苦笑する。
大切なものほど甘やかしたくなるのが、ユリウスという人間の性なのだ。
無理のないペースで少しずつルルのダイエットは進めていこうと眉尻を下げて提案すれば、しょうがないなぁ、と彼が笑った。

"ユリウス"はすべてを知っていた。
ユリウスが違和感を感じていた、何故ルドガーの仲間であったはずの彼らがこの場所にいないのか、という問いの答えすらも。
そしてこの世界に断界殻が存在している本当の理由がそこに繋がっていることも、
彼の笑顔の裏側に今もなお潜む仄暗い淀みを知りながらも、それを問うことは他でもない彼が望んでいないこともだ。

 「……トマトシチュー楽しみだな」

だから"ユリウス"は何も言わず、ただ彼に寄り添いながら他愛もない会話を続けるしかなかった。
隣で笑うルドガーの頭を、ユリウスがしたようにわしゃりと撫で、そして微笑みかける。
それでも、本当にそれが彼のためになるのか、という問いが心のうちで繰り返され続けているのは、
"ユリウス"もまたユリウスと変わらないということなのかもしれない。


世界は、ルドガーの心の扉は、確かに開かれた。

しかしそれは、同じく平穏な世界であったユリウスのそれとは異なり、
どこか歪さを残した、ある意味において非常に分史世界らしい、ルドガーの世界だった。


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結は決めていたのですがどう持っていこうか考えていたらずいぶんと間が開いてしまいました。
しかもえらい早足な話でなんだか微妙なことになってしまって非常に反省。

ルドガーの分史世界ネタはハッピーなお話が多いイメージだったので、あえて全体的に鬱々しい話にしてみた感じでした。
正史世界のユリウスがルドガーの分史世界の"ユリウス"と入れ替わるシーンが書きたかっただけという説も。


ルドガーは正史世界のユリウスを求めていたからユリウスが引きずられてきたけど、
聞いてほしくない問いかけをされて、その瞬間に小さな歪ができてしまった。
その結果、ルドガーはすべてを知ったうえで都合の悪いことは聞かないでくれる兄を心のどこかで望んでしまって、
入れ替わりという結果を招いてしまった、そんなお話でした。

……ということをここで書かないと伝わりづらいあたりが、今回のお話のダメポイントすぎてむねがあつくなる。