念のため、とルルの通り道を使って様子を伺ってみれば、そこには硬質な地面が見えなかった。
本来あるべきその姿を覆い隠すように広がるのは、窓越しに外を見た折にも景色を覆っていた霞。
少なくとも無臭である点から、煙のたぐいではないように感じる。

だとすれば、これはどういうことなのだろうか。

そんな問いに頭を悩ませながらも、屈み込んでいた体を持ち上げて部屋の中へと体を向ける。
両手にマグカップを持つ彼が、不思議そうな顔でこちらを見ていた。


La porta del cuore ― 3 : トリグラフ ―


コーヒーが入った、そう告げたルドガーに相槌を打ち、ユリウスはテーブルの定位置についた。
ことり、と小さく音をたてて置かれたマグカップの中では、黒い液体が僅かに揺れている。
向かい合うようにしてルドガーも腰掛け、彼の分のマグカップもテーブルへと置かれた。

 「……」
 「……」

しん、と静まり返ったリビングで、どう切り出したものかと悩んでいるのはユリウスだけではないのだろう。
どこか居心地悪そうに視線を迷わせながら、ルドガーは両手でマグカップを包み込むようにして持ち、黙り込んでいる。
これは自分から切り出すしかないだろう、そう思いながらも何の話からしたらいいものかと悩みながら、ユリウスはカップを傾けた。

流れ込んできた熱が食道を流れていく感覚が妙にリアルに伝わってくる。
こうして何かを口にしたのはどれぐらいぶりだっただろうか、などとユリウスはぼんやりと思考をめぐらせた。
そもそも、ルドガーが淹れてくれたコーヒー、と限定すればあの朝以来になってしまうのだろうか。
何口かコーヒーを飲み進めるうち、幾分か気持ちも落ち着いてきたように感じて、ユリウスは一度カップをテーブルへと降ろした。

 「ルドガー」
 「ん……何?」

名前を呼ばれて、ルドガーはぴくりと体を揺らせた。
先ほどひとまずはユリウスのことを正史世界のその人と納得してくれた様子ではあったものの、
この反応を見る限りでは、少しながらも警戒する気持ちは持っているように思える。
それも仕方ないことではあるか、と胸の奥がじりりと焦げ付くような痛みを感じながらも、ユリウスは言葉を続けた。

 「ここは、お前の分史世界なのか」

単刀直入に尋ねたそれは、これからルドガーと会話を進めるにあたって大前提となる要点だ。
ユリウスとしては否定したい気持ちもあったが、彼が肯定するとおよそ確信をもってこの問いかけをしている。
その確信が、結果としてルドガーが正史世界で命を落としているという事実を示すものであったとしても。

 「そうだと思う、たぶん」
 「そうか」

言葉を濁しながらも、どこか不本意そうな声色と表情でルドガーが肯定の言葉を口にした。
ユリウスが相槌を打った後、再びふたりの間に重圧感のある沈黙が横たわる。
これでは埒が明かない、そう分かっていながらも言葉を連ねることに気が引けてしまった。
カップの底に淀んでいた残り僅かなコーヒーを勢いよく呷ったあと、ユリウスはひとつ息をついて、どうにかその問いを発する。

 「つまり、お前は時歪の因子化してしまったんだな」
 「……うん、俺とエルとでオリジンの審判に立ち合ったあとに、ね」

視線を逸らしながら、ようやくとルドガーが両手で弄んでいたカップを片手で持ち上げて啜った。
自分自身が時歪の因子化したこと、何よりその事実を記憶しているからこそ、
彼はこの世界が自分自身によって生み出された分史世界なのだと理解したのだろう。

 「コーヒー、まだ飲む?」
 「ん、あぁ」

がたり、と音をたててゆっくりと立ち上がったルドガーへとユリウスは手にしたカップを差し出した。
伸びてきた彼の手がカップを捉えたところで手を離した折、ほんの少しだけ彼の指先がユリウスのそれに触れる。
途端、カップを受け取ったはずの彼の手が勢いよく引っ込められてしまい、ユリウスの使っていたカップが宙を舞った。

 「っとと」

そこは鍛えられた反射神経、というところか。
テーブルへと落下し始めたカップをぎりぎりのところでユリウスの手が受け止め、そのカップが割れることはなかった。
後片付けのことを思いやり、割れずに済んでよかったと安堵の息をつく。

 「ご、ごめんっ、すぐいれるから」

慌てた声色でそう告げ、ルドガーの手がすっとユリウスの手からコップを取り上げた。
ぱたぱた、と小走りにキッチンへと向かうルドガーの姿を横目に眺め、視界から彼の姿が消えたところで小さく息を零す。
自然と巡り始めた思考は、先ほどの彼の反応は何だったのだろうか、という疑問を辿った。
警戒しているのか、とも思いはしたが、少し違うようにも感じる。

後ろからはお湯を沸かしている音が聞こえてきた。
ルドガーはキッチンに立ったまま言葉を発する様子もなく、部屋はしんと静まり返っている。
今までならば彼との静かな時間に居心地の悪さなど覚えたことはなかったというのに、この時ばかりは酷く落ち着かなかった。

 「……兄さん」

沈黙を破ったのは、意外なことにルドガーの声だった。
ん、と短く応じる声を発すると、彼が歩く音が数回、ユリウスのすぐ後ろに彼の気配を感じる。
肩越しに少しだけ振り返れば、僅かに持ち上げられた彼の左手が、ユリウスの左腕の服を摘むような動きをみせた。
それは幼い子供が、恐る恐るながらも大人に縋るような、そんな様子にも見える。

ルドガーのさらに後ろから、お湯の沸いた音が聞こえてくる。
少し俯き気味だったルドガーの顔が持ち上がり、彼の手がすっと離れて、僅かに彼の気配が遠ざかったところで音が止まった。
一連の彼の言動を見ていて、やはり彼は警戒しているわけではないのだとユリウスは気づく。
恐らくは、ユリウスとの距離感を推し量っているのだろう。

 「はい」
 「ありがとう」

なみなみとコーヒーの注がれた、湯気の立ち上るカップがユリウスの目の前へと置かれた。
再びルドガーがユリウスの向かいの席へと腰を下ろし、小さく息をつくのが聞こえてくる。
彼の両手は行き場に迷ったあと、先ほどと同じように彼のコップを包み込んだ。
そうやって居心地悪そうに視線を彷徨わせているルドガーに、ユリウスは手を伸ばす。

 「気にしているんだろう、俺の分史世界でのこと」

わしゃり、と体を竦めるルドガーの髪を撫でながらそう問いかければ、やはり図星だったのだろう。
彷徨っていた彼の視線はユリウスへと向けられて、その表情はみるみるうちに険しさを増していった。
触れた手を慌てて引いたり、かと思えば子供のように縋る姿をみせたり。
近づきたいのに離れたり、離れるべきと思いながらも近づいてしまう、彼のもどかしい言動の要因はやはりそれなのだろう。

この世界へユリウスが辿りついた折のルドガーの慟哭、あれがすべてを物語っている。
彼は、ユリウスを手にかけた罪悪感に苛まれ、囚われ、それが故にユリウスにどう接したらいいのか分からなくなってしまったのだろう。
気にすることはない、そう思いながらも、そう言われて納得できるものでもないだろうとはユリウスにも分かってはいた。

 「……俺は、俺は……っ」

カップを包み込むルドガーの手に力がこもる様子を視界に捉える。
俯いてしまった彼の表情は窺えないが、搾り出すような彼の声は涙するのをどうにか押しとどめようとしているようだった。
ユリウスは彼の髪を梳く手を止めなかった、繰り返し彼の髪に指を滑らせながら、彼の言葉をただ待つ。

 「俺は、兄さんを殺したくなんてなかった……守りたかったのはエルだけじゃない、兄さんのことだって……っ」

クルスニク一族の悲運に巻き込みたくないと願いながらも己のせいでルドガーを巻き添えにし、
しかもその手でこの命を奪わせるようなことを、結果的に彼へ強いたのは他でもないユリウス自身であって、
彼が望んでそのようなことをするに至ったわけではないことぐらい、誰から見ても明白なことだ。
ルドガーが自分自身を責める必要はないし、彼が好きこのんでユリウスを手にかけたなど、思うはずもない。

 「兄さんは最期まで優しかった、ここでもそうだ、でも俺は……俺はどんな顔で兄さんと話したらいいのか、分からない」

消え入りそうな弱々しい声色はそこで途切れた。
ユリウスにしてみれば、結局ルドガーを巻き込んでしまったのは自分自身であって、あの顛末に関する責任の所在はルドガーにはない。
しかしながら一方で、望む望まないはさておくとして命を奪った相手を前にして、普通に接しろというのも無茶な話だ。
そう理解していながらも、ただ普通に彼と言葉を交わせるだけでユリウスにとっては嬉しいことなのだと、どうすれば彼に伝わるのだろうか。

 「全部、終わると思ってたんだ……審判で分史世界を消して、俺が時歪の因子化してエルを助ければ」

そのまま沈黙してしまうのかと思った矢先、徐にルドガーは再び言葉を続ける。
ルドガーが時歪の因子化することであの少女が助かる、というロジックは明確には分からなかったが、
事実としてそうであったのだろうとユリウスは一旦理解しておくことにした。

 「分史世界が消えて、自分も消滅して終わると思ってた……でも、そうじゃなかった」

そうしてこの世界が生まれたのだと、ルドガーは言う。
つまりオリジンの審判で成された結果は、その時点で存在している分史世界の抹消でしかなく、
骸殻能力者が時歪の因子化することで分史世界が生成される、というメカニズム自体が抹消されたわけではなかった、ということのようだ。

ルドガーはユリウスを殺してしまった罪悪感に苛まれ、自身が消滅することでエルが助かる道を選んだ。
しかし彼は消滅することが許されないまま、こうして自分自身によって生み出された分史世界という檻に閉じ込められてしまった。
行動範囲の制限されているこの世界は、彼のこの世界に対する拒絶感によるものなのかもしれない。

 「俺は兄さんを殺しておきながら、その現実から逃げたんだ……もう俺は、兄さんに優しくしてもらう資格なんて、ない」

今度こそ、ルドガーの口は閉ざされてしまった。
終始俯いたまま、沈黙が訪れた今もなお彼の表情を窺うことはできない。
それでも震えている肩や、力の篭ったカップを持つ手から、悲痛な面持ちだということは想像に容易かった。

 「ならこうしよう、俺の分史世界で食べ損ねたトマトソースパスタで手を打とうか」
 「……え」

食べたかったんだよなぁ、と何事もなかったような調子であえてそんな提案してみれば、
案の定俯いていたルドガーの顔が持ち上げられて、虚を突かれたような表情でユリウスへと視線を向けてくる。
彼の髪を撫でていた手を引っ込めて、ユリウスは腕を組んだ。

 「食べ物の恨みは怖いんだぞ、ルドガー」
 「……何、言ってるんだよ、そんな話じゃないだろ!俺はっ」

がたん、と大きく音を響かせながら跳ね起きるようにしてルドガーが立ち上がる。
テーブルが揺れて、すっかり冷めてしまったコーヒーが波立った。
ユリウスは驚かない、組んでいた腕を解いてテーブルへと肘を突いて顎を乗せると、見下ろしているルドガーを見上げる。
ただただ穏やかに微笑みながら、彼の名前を呼べば、怒りの色の強かった彼の顔がくしゃりと歪んだ。

 「何でだよ、何で……どうしてそうやって俺のことを甘やかすんだよ」
 「お前がお前である限り、俺はお前を甘やかしたいし優しくもしたい……そうだな、お手製の料理も食べたい」

全部一緒にいないと難しいことばかりだ、とユリウスは笑う。
ルドガーはこの世界を否定しているが、ユリウスにしてみればここへ辿りつけたことは奇跡といって過言ではなかった。
もう会うこともかなわない、それどころか記憶すらも失いかけていた最愛の弟と、
こうして言葉を交わしながら彼の淹れてくれたコーヒーを飲めるのだから。

立ち竦んだまま降ろした両手を強く握り締めているルドガーの瞳から、ぽろりぽろりと雫がこぼれる。
ユリウスはゆっくりとした動作で立ち上がり、ルドガーに歩み寄って腕を引いた。
抵抗もなく傾いた彼の体は、ぽすりと音をたててユリウスの腕の中へと収まる。

 「お前はよく頑張ったよ……辛い思いをさせて、すまないことをした」

ルドガーの頭と背にそれぞれ手をまわして優しく撫でる。
静かに涙している彼の両腕がユリウスの背に、しがみつくように強く服をにぎりしめている様子が窺えた。
よもや一度は命を落とした身、いつまでこうしていられるのかは定かではないものの、
今はただこの温もりに浸りながら、愛しいこの弟の心が癒えるまではと、願わずにはいられない。


翌朝、部屋の窓から見えたのは見慣れたトリグラフの町並みと、澄み渡る青い空だった。


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期間があいての更新となってスミマセン。
次あたりで完結かな。