握った手も、触れた頬も、温もりは変わらない。
だというのに、ひたりひたりと心に打ちつける冷たい雫の感触は何だろうか。

かたちはどうであれ、再び彼の姿を目にすることができて嬉しくは思う。
そう思う一方で、己のせいで苦しむ彼を目の当たりにし、複雑な心持でもある。

この限られた空間に引き寄せられた意味、彼と己について、
そしてこの世界について考えているうちに、陽は傾き、薄暗い闇に包まれていった。


La porta del cuore ― 2 : マンションフレール 302号室 ―


昏々と眠り続けるルドガーの姿をぼうっと眺めながら、ユリウスが思考の海へと沈み込んでから数時間が経過していた。
徐に浮上した意識は、このルドガーの部屋がすっかりと闇に包み込まれていることに気づく。
いったいどれだけの時間、自分は考え事に没頭していたのだろうか、とユリウスは苦笑をこぼした。
それでも時間をかけた甲斐はあったのか、幾分かユリウスの動揺も落ち着きをみせている。

 「……自分の記憶を疑いだしてはきりがないな」

こうも妙な状況に陥ると自分自身の記憶にも不安を覚える。
しかし記憶を疑うのは、ルドガーから話を聞いて矛盾が生じた時にするとして、
20年近く経験してきた分史世界の雰囲気とこの場所の雰囲気が一致すること、
そして自分は死んだ身であることを前提においたうえで、今の状況についてユリウスは整理した。

ルドガーとの一騎打ち、ユリウスの分史世界の破壊、それらを経てユリウスの魂はカナンの地へと向かった。
そこで聞いたルドガーの声に引き寄せられるようにしてこの分史世界へと流れ着いたという点から、
この分史世界は少なくともユリウスのそれではない。
そうなると、では誰の分史世界であるのか、という問いに行き着く。

 「考えたくはないが……」

あまりに限られた行動範囲、そしてそこにいるのはユリウスとルドガーの2人。
こんなにも限定的な状況の分史世界を生み出す骸殻能力者が誰なのか、と考えると
どうしてもひとりの人物に、ルドガーに至ってしまう己にユリウスは顔を顰めた。
しかし彼によって生み出された分史世界だとすれば、正史世界で彼は命を落としているということになる。

仮にそうであったとして、ルドガーはどの時点で命を落としてしまったのだろうか。
オリジンの審判は、そしてビズリーの思惑はどうなったのか、いろいろと気になることも出てくるが、
そもそも前提としてルドガーが時歪の因子となっているのであれば、
正史世界の行く末を憂う必要性は限りなく低い。

 「ここはお前の分史世界なのか、ルドガー」

伸ばした指の背でルドガーの頬を撫で、ぽつりとこぼした問いかけに応じる声はない。
目の前に眠るルドガーが正史世界の彼なのか、それとも分史世界の彼なのか、そんなことも考えたが、
この分史世界の生成について予測を立てていくと、己の時と同様、正史世界の彼そのものと判断せざるを得なかった。

そして、このルドガーのものと思われる分史世界をユリウスのそれと比較して感じることは、閉塞感と拒絶感だ。
ルドガーにとって自身の部屋というものは、彼の世界の中でもっとも小さい単位になるだろう。
窓の外は霞み、扉は閉ざされたまま、そして眠り続ける彼の姿、どれを取ってもこの世界に否定的な印象を受ける。

 「ん、目が覚めたか」

思考に浸っているうち、足元へと落ちていた視線を持ち上げてルドガーの方へと視線を向けると、
天井をぼんやりと見上げている彼の姿が視界に入った。
この状況の鍵を握っているのは彼で間違いない、とにかく彼と会話する方法がないものか、とユリウスは考える。

 「……ルドガー、聞いてほしいことがある」

ユリウスはルドガーの頬に触れたまま、いつも以上にゆっくりとした調子で言葉を投げかける。
相変わらずと彼からの応答はないが、呼びかけられた名前に反応したのか、僅かに瞳が揺れたようにも見えた。
ひとつ呼吸をおいて、言葉を続ける。

 「俺が正史世界でのことを知っている、という話だ」
 「……そだ」

ぽつり、と掠れた声が聞こえてきた。
正史世界でのことを知っているというユリウスの言葉に反応したのだろう。
先ほどの激情とは異なった、弱々しい声色で、"違う、そんなはずはない、嘘だ"と彼はユリウスの言葉を否定する。

うわ言のように否定の言葉を呟くルドガーを、覆いかぶさるようにしてユリウスは抱きしめた。
ルドガーとシーツの間に腕を回し、なだめるように背を撫でる。
しかしなだめているばかりでは状況は変わりそうにない、ユリウスは頃合をみて言葉を続けた。

 「マクスバードでの一騎打ちも、自分の分史世界が崩壊したことも、その時のお前の慟哭も、全部知っている」
 「何で、だよ……それじゃ、正史世界から来たみたいじゃないか」

先ほどまでの調子と異なり、そのルドガーの言葉は動揺に震えながらもクリアに発せられた。
そのとおりだ、と応じればユリウスに抱きこまれたまま、彼は首を何度も横に振る。
正史世界のユリウスは自分が殺した、こうして分史世界に来ることなどできるはずがない、そうルドガーが繰り返した。

 「確かに俺は死んだ、そしてカナンの地へと流れついてから、お前の声が聞こえた」
 「……俺の、声?」

首を横に振っていたその動きをルドガーはぴたりと止めた。
ユリウスはその反応に、彼を抱きしめる腕の力を弱めて体を少し浮かせる。
見下ろした先にいるルドガーの瞳には、困惑を湛えなががらも光が宿っていた。
左肘はベッドへとつき、右手でルドガーの前髪を掻き揚げるようにしてユリウスは撫でる。

 「信じられないと思う気持ちは理解している……自分でも何がおきたのか分からないぐらいだ」

そう言ってユリウスは苦笑した。
ルドガーは言葉を失っているものの、この場所で初めて出会った時のように拒絶するような素振りはない。
目を見開いていた彼は、次第に苦虫を噛み締めたような表情へと移ろわせ、眉間に皺を寄せた。
苦しげに唇を噛み締めながら、次第に彼の目尻からはぽろり、ぽろりと雫が溢れてはこぼれていく。

 「……っ、兄、さん……っ」

ゆるりゆるりと持ち上げられたルドガーの両手がユリウスの頬へと伸び、一瞬戸惑うような動きの後、その両手で顔を包み込まれる。
ようやく、ユリウスがこの分史世界のその人ではないのだと、彼の中で決着がついたのだろう。
ルドガーに微笑みかけた後、再びユリウスが彼を抱きしめると、彼の手が頬から滑るようにしてユリウスの背へと回された。

ルドガーの泣きじゃくる声が響く中、かちゃり、と小さな音が耳に届いた。



ひとしきり泣いてルドガーが落ち着いた頃合、名残惜しさも感じながらユリウスは彼を抱きしめていた腕を緩めた。
いったんベッドから起き上がり、縁にぽすり、と腰を下ろす。
その折、真向かいには部屋の扉が見え、ふとユリウスは違和感を覚えた。
ルドガーが体を起こしたようで、シーツの擦れる音を耳にしながら、一旦降ろした腰を持ち上げてユリウスは扉へと向かう。

 「扉が開いている」

近づいてみれば、薄っすらと扉と壁との間に隙間があいており、中途半端に扉が開いている状態だった。
先ほどまでびくともしなかった扉、その向こうには何もないとユリウスは考えていた。
恐らく先ほど耳に入った音の正体がこれなのだろう。
扉の前で棒立ちになっているユリウスに疑問を持ったのか、ベッドから起き上がったルドガーがすぐ隣へと歩み寄る。

 「どうかした?」
 「ん、あぁ、さっきまでここの扉が開かなかったんだが」

扉の先がどうなっているのかは分からないが、見てみないことには分からないままになってしまう。
ユリウスはひとつ息を吐いてから、目の前の扉を開いてみた。
開けてしまえば何ということもなく、目の前には薄暗い見慣れたリビングとキッチンが広がっている。

考えなければならないことはまだ多いものの、とりあえずはこれでひといきつけそうだ、とユリウスはもう一度深く息を吐いた。
何か温かいものでも飲もうか、と隣に立っているルドガーに声をかけようと視線を彼へと向けると、
なんとも複雑そうな表情でリビングの一点を凝視している。
視線の先へユリウスも目を向けてみるとそこはキッチンとテーブルの間、ユリウスの分史世界でのことでも思い出しているのだろうか。

 「ルドガー」

名前を呼び、ルドガーの頭をわしゃりと撫でた。
びくり、と少し驚いた様子のあと、ユリウスを見上げながら少し困ったような、申し訳なさそうな、そんな笑みを浮かべる。
その笑みに応じるようにしてユリウスは微笑みかけた。

 「ひとまず休憩してから、一緒にいろいろと考えてみよう」
 「……うん、じゃあコーヒー淹れるよ」

キッチンへと向かうルドガーの背を見送り、ユリウスは部屋の明かりをつけようと玄関へと向かう。
玄関近くのスイッチを操作すると、暗くなっていたキッチンとリビングが明るく照らし出された。
伴って視界に映ったルルの餌を入れる器、それ自体はあるもののここにはルルがいないようだ。

テーブルへと向かおうと思ったところで、ふと、ひとつの疑問がユリウスの頭によぎる。
先ほどはルドガーの部屋の扉が開かなかった、ではこの302号室の玄関はどうなのだろうか、と。
リビングの方へと向けた体をもう一度玄関の扉へと向け、扉のロックを解除するパネルへと触れた。

 「……」

パネルは何の反応もなく、玄関の扉が開く気配はなかった。


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今のところルドガー→←ユリウスな、両片思いな感じです。