守ってやりたい、関わらせたくなかった、ただただ生きて欲しい。
勝手な兄だと恨まれても構わなかった。

つかの間の平穏に身を委ねながら、彼の来訪を待っていた。


最愛の彼が生きながらえるなら、彼の願いが叶うのならば、その礎としてこの命を差し出すことすら厭わない。
最期に見たその苦渋の表情と聞こえてきた嘆きの声に胸を締め付けられながらも、そっと意識を手放した。


La porta del cuore ― 1 : ルドガーの部屋 ―


微温湯に浸かっているような心地よさの中、魂が漂白されていくかように、記憶も意識も少しずつ削ぎ落とされていく。
そんな状況にあってなお、あやふやな意識とも呼べない意識が最後まで手放せずにいたものがあった。
それは他でもない、大切な大切な、愛しい彼の思い出。

 「    」

音という音が存在しない、声も出ない。
それでも忘れたくないたったひとつの名前を口ずさむ。
繰り返し、繰り返し、彼の名前を。

そんなことをしていたところで、いずれはその名すらも分からなくなってしまうのだろう。
名前だけではない、己を呼ぶその声も、喜怒哀楽に揺れ動く表情も、振舞ってくれた手料理の味も、触れた温もりも、だ。
彼こそが己の存在意義、そんな彼との思い出を手放した瞬間、真なる意味で己という存在は消えてしまう。
自己の消滅自体に今更恐怖感はないが、記憶が欠落していくその過程に、何よりも恐怖を覚えた。

 「    」

零れ落ちそうになる彼の記憶をどうにかその腕に捉えながら、再び彼の名前を唇にのせる。
そうやって流れに逆らい続けていると、ふと、音のないはずの世界にひとつの音が聞こえてきた。
音というよりもそれは声、手放せずにいる記憶の中にある声だと分かる。

彼の、泣いている声が聞こえてくる。
霞んでいた意識が突如として晴れ渡り、ユリウスは急速に覚醒した。
自身の死を思い出し、無事に魂の橋はかかったのだろうか、彼はどうなったのだろうか、と思考が巡る。
しかしそれ以上に、最後に耳にした慟哭とも異なるこの苦しげに嘆く声が気がかりで仕方がない。

 「ルドガー」

その名前は明瞭な音を伴い、ユリウスの唇から零れ落ちた。
途端、ユリウスは青白い光に包まれる景色に小さな綻びを捉える。
何故かは分からない、何としてでもその綻びへと手を伸ばさなければならないという焦燥感を覚えた。
我武者羅にその綻びへと手を差し出して翳すと、ユリウスは強烈な光に包み込まれていった。



ぼんやり、ぼんやりと滲むようにしてホワイトアウトした視界に景色の彩りが広がっていく。
頭に霧がかかるかのように、そしてふわふわとした謎の浮遊感を感じながら、
ユリウスは眼前に染み広がる色彩へと意識を向けた。

ようやくクリアになった視界に映ったのは見慣れたマンションフレールのルドガーの部屋だった。
丁度扉の前に立っている格好で、正面の窓からは柔らかな陽射しが部屋を明るく照らし出している。
しかし何故か、外の景色が霞んでしまっているようで、陽の光こそ差し込めど、窓の外は何も見えなかった。

 「……ルドガー、なのか」

窓から少し視線を下げると、床に座り込む愛しい弟の後姿を視界に捉えた。
ユリウスの呼びかけに応じる様子はなく、項垂れたまま何かを堪えるかのように肩を震わせている。
一体どういう状況なのかは定かでない、しかしこの独特の空気は間違いなく分史世界のそれで、
しかしユリウスの分史世界は崩壊したはずだった。

状況は分からないままではあるものの、この部屋にはユリウスとルドガーのふたりだけ。
ルドガーの様子がおかしいことは間違いなく、僅かに警戒しながらもユリウスは彼の左隣へと屈み込んだ。
相変わらず反応のない彼の背へと右手を伸ばし、そっとその背を撫でながら名前をもう一度呼んでみる。
その顔を覗き込もうとすると、ぽつりぽつり、とこぼされている小さな声が耳に届いた。

 「……やだ、嫌だ、いや、だ」

震える声は、嫌だ嫌だ、と繰り返している。
ユリウスの分史世界を破壊した時の強烈な慟哭とは違う、弱々しく悲しみに打ちひしがれているような声色だった。
何度もルドガーの名前を呼んでみるも、やはり応じる様子もない。

埒が明かない、とユリウスは屈み込んだままルドガーの真正面へと動き、両手で彼の頬を包み込んで持ち上げた。
虚ろなその瞳と視線が交わった途端、ようやくユリウスの存在を認識したのか、ルドガーが目を見開く。
やっと話ができる、そう思ったのもつかの間、ルドガーがユリウスの両手を勢いよく払い除けて飛び退いた。

 「っ、どうしたんだ」
 「違う……っ!分史世界のユリウスは、俺の兄さんじゃない!俺の兄さんは、俺が……俺が殺したんだ!!」

距離を置いたルドガーは、その両手で頭を抱え込みながら体を震わせている。
そんな彼の様子を目の当たりにし、今度はユリウスが目を見開いた。
ルドガーの錯乱状態にも驚いたが、それ以上に彼の物言いは、正史世界の彼の記憶に基づくものであるかのようだ。
そして彼はユリウスのことを分史世界のその人と思っているが、ユリウスもまた正史世界での記憶を持っている。

 「ルドガー、少し話をさせてもらえないか」

動揺する心を抑え、ゆっくりとし口調で語りかけながら、一歩踏み出せばルドガーも一歩分後退する。
それは完全なまでの拒絶、さすがにこれは堪えるな、とユリウスは苦笑しながら内心でひとりごちた。
ここは強引にでも捕まえるべきなのか、それともこのまま少し時間を置くべきなのか。
時間を置いたところで、この状況を見るにいい方向へ転ぶようには思えなかった。

仕方ない、とユリウスがもう一歩踏み出した時、今度はルドガーの反応がなかった。
ようやく落ち着いたのか、という考えは希望的観測だとユリウスにも分かっている。
慎重に、ゆっくりとした足取りでルドガーへと近づき、再び真正面に屈み込んで彼の肩に手をかけた。

 「……ルドガー?」

呼びかけに応じる様子はない、軽くルドガーの肩を揺さぶってみると、頭を抱えていた両手がぱたり、と床に落ちた。
ユリウスは乗り上げるようにして更に距離を詰め、先ほどと同じように両手でルドガーの頬を包み込む。
零れた雫で濡れそぼる頬を持ち上げるも、光を失ったエメラルドグリーンの瞳と再び視線が交わることはなかった。
糸の切れてしまった操り人形よろしく、力なく座り込み沈黙する最愛の人を前に、ユリウスは顔を歪める。

 「俺のせい、なのか……」

そっとその頬から手を離し、心神喪失状態のルドガーの背へとまわして正面から彼の体を抱き込んだ。
深呼吸をひとつ、彼の髪に頬を寄せながらユリウスは目蓋を閉じる。
誰よりも優しく、ユリウスが思っていた以上に兄を想ってくれていたルドガーだ。
自惚れを差し引いても、覚悟をきめてなお、自責の念からこのように錯乱してしまったとしてもおかしくはないだろう。

ユリウスを認知した時の彼の反応には、正史世界のユリウスへのこだわりと罪の意識が色濃く映っていた。
ここが分史世界であることは間違いないとして、今抱きしめるルドガーが正史世界の彼なのか、この分史世界の彼なのかは分からない。
ただ少なくとも、彼は正史世界の彼が辿ってきた道を経て、ここにいるように感じられた。

 「少し休もう、ルドガー」

完全に脱力している人間を持ち上げるにはかなりの力を要する。
細身とはいえルドガーもその例外にはないが、ユリウスはどうにか座り込んでいる彼を抱き起こし、
彼のベッドへと運んで仰向けに横たえた。
シーツをかぶせたあと、乱れた彼の前髪を梳き撫で、目尻に残る水滴を親指の腹で拭う。

少し状況整理をするためにも気持ちを落ち着かせなければ、とユリウスは小さく息をつく。
こんな状況だからこそ、コーヒーの一杯でも飲もうかと思い、扉の方へと踵を返した。
ルドガーのことだけではない、死んだはずの自分のことも、この場所のことも考えなければならない。
焦ってどうにかなるものでもなさそうだ、そんなことを考えながらユリウスは扉へと手を伸ばした。

 「ん……」

確かにユリウスの手はいつもどおりに扉を開けようとしていた。
しかし、どんなに開けようとしても、何かしらかの力によって扉はびくともしない。
扉の故障という可能性も頭をよぎったが、この状況を踏まえるとどうにも腑に落ちなかった。

扉から手を離し、ユリウスは体を室内の方へと向けなおした。
正面にある窓の外は、相変わらず霞んでしまっていて本来見えるはずの景色が何も見えない。
ベッドの脇まで引き返し、改めて窓の外へと視線を投げてみるが、見通しの悪さに変化はなかった。

 「この分史世界は、ここしか存在していない……?」

ふいに思い至ったのは、扉の先にもこの窓の先にも何も存在していない可能性、だった。
ルドガーの部屋にせよ、ユリウスの部屋にせよ、窓からはこの居住区を目下に、トリグラフの街並みを眺めることができる。
そうであるにもかかわらず、ここまで外が見えないとすれば異常なまでにスモッグが発生しているということになるが、
だとすれば警報のサイレンのひとつ、聞こえてきてもおかしくはないはずだ。

と、そこまで考えたところでユリウスは深く息をついた。
過去、散々壊してきた分史世界での事例を考慮すれば、およそこの予想ははずれていないことだろう。
あとはもうルドガーと話してみないことには憶測の域を出ることも難しい。
窓の外へと投げていた視線をベッドに横たわるルドガーへと戻すと、彼の目蓋は閉じられていた。

 「……続きは後にするか」

何とか辻褄が合うように情報を整理してみてはいるものの、憔悴しているルドガーを前にした状況で、
精神的な余裕があるかと自問すれば、とてもではないがあるとは言えない。
だからこそ、コーヒーの一杯でもと思ったぐらいだ。

ベッドの縁に座り、眠るルドガーの頬へと手を伸ばした。
改めて見ると、随分と顔色も悪く、少しやつれているようにすら感じる。
閉じられた目蓋を親指で撫でながら、ユリウスはルドガーの名前をぽつりとこぼした。


≪ Back || Next ≫


ここから先はユリウス視点で話を進めていきます。