2005年四季彩舎 アーチストメモランダム -14-

クラインの壷

文・篠原 弘(美術評論家)

 斉藤望の今回の作品では、ひとつはバラ、もうひとつは3点組の水仙を描いたものをみた。ともに15号の作品で、タイトルはすべてアルファベットの英語表記である。「Rose-with soft sunlight」と「Narcissus-early apring」。

 前者は、屋外のバラの作品で縦構図。向かって左側に枝が伸び、上からたわわに枝が垂れ下がるようにして花が咲く。下からも上に向かって花や蕾が伸びている。太陽の光がさしこで、葉の緑やピンクの花に影をさす。大きく右に空間をとっている。石膏地を丹念に磨き上げた上に金箔を貼り、その鏡のような虚空間の上にバラを描いたものである。見るものを逆に映しこむ鏡のような金箔の空間が特徴だ。パネルの形状はゆがんだ不定形、後者は、板にクロス貼りした布目の残る金地のパネルが三点、空間を空けてつながる構成である。三点共に画面の中央に川とか土坡、雲とも取れるような空間が盛り上げられている。その上下にかわいらしい水仙が塊となって点在する。三つの分割画面の穏やかな時空の連続・非連続性が特徴だ。

 タイトルは「華」。チューリップ、シャクナゲ、牡丹。そのほかにもブドウも描かれているから「花」ばかりではないということの表れだが、そこにはもうひとつ、具体性だけではなく象徴性がこめられている。華やかな金箔地からは琳派などの日本的な美意識の活用が感じられるのだ。ところが、画家はあえて、そのタイトルを英語表記にして日本離れをしている。空間は虚空間、余韻や余白を多く取って和風なのに、そこではやさしい光や早春の風も取り込まれ、具体的・現実的なのだ。余分なものを排除していき、最小限度のもので空間を満たそうとしながら、緩やかで穏やかで柔らかい表現には美少年のようなイメージもある。ばら色の花言葉も加味されているだろう。大上段に構えて問題意識を振りかざそうとしているわけではないが、画家は試行錯誤をし、その豊か過ぎる問題意識をどう表現するか、果敢に挑戦しているようだ。

 西洋には、花の絵で知られた最初の画家として、フランドルのヤン・ブリューゲルがいる。父のピーター・ブリューゲルを「大ブリューゲル」と呼ぶのに対して、ヤンは「ビロードのブリューゲル」とか「花のブリューゲル」と呼ばれるわけだが、この時代の画家は多くの専門分野に別れて、動物画を得意とした画人、人物画、風俗画、静物画、肖像画の専門家が棲み分けていたようだ。細密な花の表現に優れたヤンは、同時代のルーベンスの協力者としても知られるが、その豪華で多彩な花々がにおいたつような作品群によって、よく知られたスペシャリストだった。

 東洋には、中国や日本に花鳥画という伝統がある、花だけを描くことも多いが、概念としては、花には鳥がつきもので、時には虫や主に草食系の小動物や魚を添えたりもする。だが、画面で中心となるのはあくまでも草花である。この草花と鳥のコンビネーションは、自然界を象徴する身近なモチーフとしてあり、対象物を精緻に移すことが多い。だが、その花や鳥を囲む空間は、いわゆる象徴的な虚空間である。特定の場所に限定されないようにするのが通例だ。つまり、題材と人が直接結びつくことはない。花鳥画とは、人間の社会を越えて、自然を讃仰する行為だ。東洋的な世界観に立った概念である。山水画と一対の世界観・宇宙観の現れだと考えられる。それは一種の自然崇拝であり、輪廻転生がその中に含まれている。東洋的な、生死観・宇宙観を身近なものによって象徴的にあらわすのが花鳥画といえよう。

 その後、花の絵は静物画の中に含まれ、読み替えられるようになった。近現代になると、花は日本画世界でも新古典主義の中心的なモチーフとなり、立派な花器や鑑賞陶器の中に盛った草花が、気品豊かな現世の富を美を示すようになる。日本の洋画の方でも、同じことがいえる。たとえば、バラの絵に関していえば梅原龍三郎、林武、中川一政、彼末宏らのバラが好まれたのは日本の洋画の確立と発展という時代背景があったからで、花は同時代の同一課題に対する日本画と洋画の回答であると考えられる。

 さて、西洋では20世紀になると、人物画、静物画を中心にしてキュビズム革命が起こる。それは事物を立体的にとらえ、多面的に角度を変えて観察する思想で、そもそも西洋の伝統にあるリアリズムの一方における徹底化だともいえる。花の絵に関しても、その存在感や重量感を表すのが、再現性とともに重要な仕事として意識される。画面に花を描くとき、その周辺の生きた空気感を描くのが中心課題となるのは、花を立体物として立ち上げて、存在させるためである。そのためには側面からや背面の見えざる視点が必要で、その香りや光を透かして感じられる瑞々しさなども大切な要素になってくる。風や葉ずれの音が感じられる空間というのは、虚空間ではない。重力のある、この地球上のどこかにある現実の空間である。

 斉藤望は所属する主体展では、現代の歪んだ空間を切り取り、再構成するような作調で知られている。氾濫するモノの描写とその雑多な関係性によって、現代の奇妙な生活空間の深部をえぐり出すような仕事をなす。高層住宅に住み、多様な通信機器に囲まれ、人工光線の中で暮らし、多くの添加物によって加工されたものを食しているわれわれの生活は、すでに廃墟に一歩近づいているようだ。自然の循環から相当に逸脱している。それでも自然に回帰しようという希望を持つ。その矛盾する思いがこの花の作品群にも投影されている。

 独自の空間表現に、優れた才能を示す斉藤望の花の絵は、日本の洋画を目指しているわけでもなければ、西洋流を押し通そうとしているわけでもない。単なる豊穣とか現世の肯定でも否定でもない。美しさの賛美ではあるが、我々の時代の投影でもあろう。鏡のように見るものまでも映しこむのである。クラインの壷のように解けない謎がる。だから面白いのであろう。

 イコン画ごとき金地の空間を見直すのも、あるいは参考になるかもしれない。

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