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このページの趣意について 04.02

1.自然科学をモニターする
2.自然科学をモニターするとはどういうことで、何のためにするのか?
3.では、具体的にどうするのか?
4.結びに代えて、そして今後の展望として

@自然科学をモニターする

この課題は、大学で私が落第してしまった科目の個人的再履修のために設定している。
このコンテンツは、再履修と言う以上は、評価が必要である。よってインターネットを通じて公開することによって世界の、といっても日本語版しかないので自ずと範囲は限られるが、このようなことに興味ある篤志家(少なくとも無償で意見を寄せてもらえれば私にとってはありがたいスポンサーであることに変わりはないのである)の興味を引き、私の発表に対するパブリックなコメントを頂ければ幸いなのである。
協力を仰ぐ以上私の再履修計画について明らかにしなければならないであろう。
私がこの課題を以下に進めていくつもりであるかを以下に紹介する。

@自然科学をモニターするとはどういうことで、何のためにするのか?

自然科学をモニターするとは、何のことであるかということから考えを巡らせる必要があるだろう。自然科学を監視するという文脈がどこに位置するかに依存することは確かであるが、どの文脈上にあったとしても自然科学というものを対象とし、その動向に非常な危機感を持って注意深く見つめるということが言えると思う。

このことは、たとえば自然科学者自身が、自らの行っていることについて、今何をなそうとしているか、それを考えるにあたって今まで自分が何をしてきたか、そしてこれから何をなそうとしているかを考えることであるだろう。これは非常に重要だ。少なくとも人が自らについて考えを巡らすことは古代から人々が多く行ってきたことであり、その結果は哲学として分明に対して少なからず寄与している。しかし、このとき彼の思考の矛先は、誰に向けられているのだろうか。科学者自身は誰を念頭に置いて自らを考えているのか。それは宇宙の法則であろうか(Stuart Kauffuman "At Home In the Univers")、それとも科学者達自らについてであろうか(James D.Watson "DNA The Secret of Life")、はたまた人類社会についてであろうか(廣重 徹「科学の社会史」)。

自然科学が19世紀、20世紀にふるった力は絶大であったし、今も尚その威力は増している。人類社会は自然科学に依存しているのは確かなある一面である。だが一方で、依存している彼らは、自然科学というものを正しく捉えているのであろうか。

科学とは、因果を明らかにすることである。自然科学とは自然現象の因果を解き明かすことを任務としてきた。ここで人間の社会行動も含めて自然と定義したならば、自然科学は非常に広範な範囲にわたってその因果を解き明かす手法を適用できることになる。では、自然科学の因果を解き明かす手法とは何か?

自然科学の内部に於いて絶大な威力を持つのは、物理学と化学であるが、最も微少なレベルに還元したならば、物理学が科学のセントラルドグマを形成しているといえるだろう。物理学の科学への寄与は、運動を演算可能な形式によって記述するというテクニックの導入にあると私は考えている。これによって、因果の流れをパラメータを代入する変数の関係式によって記述できるようになった。従って関係式すなわち現象モデルの構築とパラメータの値の決定が科学の具体的目標として定まることになったのである。故に、最も純粋な形式で因果を記述できる物理学がすべての自然科学分野の範を採っているのである。

こうして人類社会は、科学の英知を手にし、それを以て技術を生み出し活用してきた。

では、人類は科学によって幸福になったのであろうか。因果を分析と再構築によって明らかにし、その再構築によって得られた知識を基に技術を開発し人類の思うがままの現象を人類の思うように生み出したことによって、少なくとも人類は多少死ににくくなった。そして多少増えやすくなった。これは生物の目的が種の継続にあるとする生物学(異論は多々あるが、ここでは表現の都合上ひとまずこう看做すこととする。)の立場に依れば十分幸福であろう。だが同時に、人類が今後現状ペースと規模によって生存し行く可能性のも多少のリスクの増大が明らかにもなった。これは種の生存という観点からは深刻な問題である。

果たして、人類にとって自然科学とはいったい何なのであろうか。確かに一面に於いては自然科学の恩恵に浴しているし、自然科学がなければ生きていけないほどに依存しているし、自然科学こそは人類のなすべき行動そのもの、生存活動そのものであるといっても過言ではないほどでもあるだろう。しかし、一面に於いて自然科学自体は因果を明kにするだけで、それをどのように扱えとも言っていないのである。これは、車を与えられて乗り方を教えられてはいるが、行き先を知らないのである。道を行き着いた先がどこなのか、月の裏か?火星のオリンポス山か?それともマリアナ海溝の最奥か、はたまた原始の海か?夜道のドライブには大変に神経を使う。前方をしっかり監視していなければならない。

古代ヨーロッパで戦禍の果てに、ある兵士が崩れかけた壁に書いた言葉は有名である。「我々は何者で、どこから来てどこに行こうとしているのか。」
道具を手に入れた遙か太古の人々は、石の斧を高く振り上げて何を夢見たのであろうか?
プロメテウスは今何を思うのか?

私は何の因果か法学徒として学問の入り口を彷徨ってしまっているのでどうにも中途半端で仕方がないのであるが、法学徒の視座として、社会秩序を念頭に、自然科学の動向とそれによる社会秩序上のを監視するということをすることにする。

ところで、監視とはかなり強い意味合いがある。監視と言うからには何かから何かを守るためというニュアンスを含んでいる。文脈に沿えば、自然科学によって影響を著しく受けるものを守るためと言うことになるが、それは何か?自然環境という言い方も出来るであろう。人間によって自然が破壊されていると、それの真実性はともかくとして、無批判に受け入れている(その割には、それに対してアクションがない。ここからも無批判に受け入れているに過ぎないから、当事者意識にかけているのだという言い方も出来るが。)現状においてはまっとうな回答かもしれないが、そもそも自然環境を守ると言うとき。大概は「やがては人類に・・・」等と言うし(もっとも自然が自然であるが故に守るべきという意見もあるが)結局の所、科学が人類を幸福にしたかという論点から見れば、保護対象は現時点に於いて科学の担い手である人間ということになるだろう。

@では、具体的にどうするのか?

先ず、科学というものはどういった思考体系であるかを明らかにする必要があると思う。

つまりは、科学の担い手たちの思考法を理解することが重要である。理解するが同意しないという態度が弁証法では重要である。弁証法によって理解を進めることは非常に有益であるとおもう。なぜならば、科学は因果を明らかにすることを任務としているから、「厳然たる事実」を基礎にすえて、その事実のモデルによる現象の再構築を議論するのであるから、そのモデルの構築における理念をターゲットとする事で、自然科学のパラダイム自体に取り込まれることなく、客観的に科学を科学特有の土俵から人類を考えるという同じ土俵に引き出せるのである。

よって、先ず自然科学について理解を深めなければならない。これは、生の自然科学の方法、つまりきちんと手続きを踏み、データを精査し、モデルを検討し、モデルを実証するという自然科学の実態を掴むことも重要である。次に自然科学に関する思想的研究の成果を先ず確認しておく必要がある。つまりは、自然科学史やいわゆる科学的読み物という形で科学者が、それに近い人たちが科学をどのように捉えているか知ることである。そして、それらの上で、複数の考え方を比較する事が重要である。比較によって新たな一定の指針が得られればそれを基に現状の分析を行い具体的にどうあるべきか、そのために何をなすべきかを考えることが出来るだろう。

つまり、やるべき事は、

1.自然科学を知り体験する。

2.科学者の考え方を分析する。

3.現状を分析する。

という3点に集約される。だいぶ私の再履修計画が明らかになってきた。
しかしながら、ここから先については、何とも曖昧模糊としている。
1については、具体的にどうするべきか。大学の提供してくれるもので利用できるものは利用しよう。
2については、書評にも随時あげるが、読み、そして大学問い有利な環境を生かして科学者にあって話をすることが重要だろう。
3については、近時、特に生命科学分野が非常にめまぐるしい動きを呈しているし、社会に於いてもより深刻に捉えられているので、それらの動きを随時追跡したい。

@結びに代えて、そして今後の展望として

私は、このことをオープンにネットワーク上で展開することで、何らかの反応を求めている。ネットワークは、無重力な情報空間、ハイパーキューブ(超立方体)である。もしかすれば何かの契機になるかもしれないしならないかもしれない。ただ確実なのはこのページをここまで読んだ人物がいると言うことであり、著者としては大事にしなければならないだろう。情報を閲覧できると言うことは、その反対に情報を発信し続けなければ存在しないと言うことになるのであるから。

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