生物学における二つの立場について 〜カウフマンとワトソンの比較から〜

概説

この論考では、考え方の相違が著しい2者を比較することによって、現代科学を推進する思想の違いを明らかにしてみたいと思う。下敷きとして、スチュアート・カウフマン「カウフマン、生命と宇宙を語る」トーマス・J・ワトソン「DNA」、ジョン・メイナード=スミス「生物は体の形を自分で決める」。

科学を推進する立場としての思想哲学の存在

科学と哲学は、哲学が問題を設定し価額がそれを徳というような図式で捉えられることが多い。古代ギリシアでは、科学と哲学という者はほとんど不明瞭であり一帯となっていたと思われる。たとえば、それはモナド論であったりする。さらに、中世そして近代に於いても、哲学と科学と宗教は未だ渾然一体としていた。17世紀に於いて、ヨーロッパにおけるキリスト教では、哲学は人を神から遠ざけ、科学こそが人を神へと近づけると考えられていた。ニュートンがキリスト教の信徒として、断片的に散在する「自然における神」を整理し、復元しようとした。故に彼の立場は、「私は仮説を立てているわけではない」のである。科学と哲学と宗教が厳密に区分され、取り扱われるようになったのはそう古い時代のことではないし、ましてはじめから自明の存在でもなかった。この講で、いつ何時何故に分離したのか、そもそも本当に分離しているのかということについては、触れようにないが、いずれは必要があると思う。とりあえず、この講では科学を行うにつけてもその手法の選択に於いて、その担い手の哲学を見いだすことが出来うるし、又、それを手がかりに彼らの推進する科学の行き先について考察を加えてみたいと思う。

生物学における2つの立場

生物学は近年特に発達が著しく、そしてその発展において様々な手法の流入による様相の変化がある。古典的生物学は、リンネの分類学に始まるように博物学的色彩が大変に強く蒐集・観察・分類を主な手段としていた。生命については基本的に生気説という立場、つまり生命を活性化させるエネルギーの存在の仮定、肉体と精神の枠組みを採っていた。是は、どうやら、生物という者を対象としたとき、動くか動かないかという判断が大きく働いていたためと考えらる。たとえば、当時、原題に於いて動物にカテゴリーされる珊瑚は鉱物として扱われていた事からもわかるように、当時の生物学(博物学といった方がより正しいが)は、外見に大きく依存し、その時の判断基準はけれらのみ時間にあった生物と彼らの思考枠組み、キリスト教によって与えられていた人間の世界における位置づけに沿って板と考えられる。故に、生物は生きてイテこそ生物であって、死んでしまった者はもはや生物ではなく、それを分析することは解剖学の領域であったのであり、生きているという事象そのものを説明するに耐えうる思考枠組み(パラダイム)が無かったのではないだろうか。

これに対して、19世紀、ダーウィンによって自然淘汰と突然変異を原理とする生物種の発生プロセスが論じられた。ダーウィニズムによってどのような具体的なインパクトがあったのかはここで論じるに至るほどに調査が至ってないので明言を避けるが、ダーウィンによって生物が神秘的存在というカテゴリーから、論理的に理解可能な、法則性ある対象として、つまりは、還元論的に扱うことが出来、分解によって一切その素材自体が崩れてしまうような対象ではなく、分析可能な対象として認識される事によって、パスツールに代表される生化学の立場が出現し、生物を化学的に捉える視点、そしてメンデルに代表される数理モデルによる視点が出てきたと考えられる。

ダーウィニズムというパラダイムの出現によって、還元主義を生物を対象に導入することが可能となった。生物を要素に解体し、それらの関係を記述し、実験によって確認するという手法の確立が、原題の生物学に通じる流れとなっている。

分子生物学の出現もまさにこの流れの上にあり、物理学者であったボーアやシュレーディンガーらが、生物を化学分子の集合体的に捉えそれらの反応仮定を明らかにすることで生命に迫るという分子生物学のアプローチの基本スケッチを提示できたのも、まさにこの流れに乗ったものである。そして実際の成果としてDNAの特定と関連技術があげられるだろう。

このように、生物学の基本的立場は、他の科学分野に於いても同じように、全体を還元することによる要素の分析という還元主義を基本としている。そして、この手法は分子生物学に代表さている。

これに対して、近年、複雑系といわれる分野・手法が出現している。従来の還元主義的方法論や立論に於いては、ありのままのものを分解し、確かにその状態を説明することは出来るが、その状態が出現する必然性について、つまりは、何故リンゴはリンゴ足るのかということについて、「偶然に」としか、答えることが出来ていなかった。これに対して、複雑系に於いては、総体主義(ここではこう呼ぼう思うが)、つまりは、複雑きわまりく、また偶然にその原因を求めるにはあまりにも無謀(これは可能性として名否定し得ないが、そうなる可能性が非常に小さい故に、まさに現状を説明するのに十分なのかという懐疑である。)であり、偶然の事象に対して、その出現の秩序(合理性)を見いだそうとする方法である。還元主義の「要素への分解」に対して、「要素の関連性の分析」を中心としていることに特徴づけられると思う。そして、この手法の生物学における導入が数理生物学に代表される。

二つの立場の相違がもたらすもの

これらの二つの立場は、表面的に手法の違いであるが、この違いによって大きく生命を捉える枠組みが異なってくる。還元主義においては、生命はとかく偶然の産物に過ぎないのであり、正しい選択の積み重ねの結果として生命が生じていることになる。一方で総体主義においては、生命は全くの偶然としてではなく、自発的に選択して出現した存在であるとみる。

つまりは、自然淘汰や突然変異は、可能性の海の中から偶然に現れたに過ぎないのであって、正しくその組合せを理解さえしていれば、人間が偶然に変わりより合理的に、ここでそのように言うのは、この立場では自然を合理的な存在であるとは捉えないのであり、自然はいびつな形をした偶然の集合体がいびつなりにも、その中で合理的に作用していると捉え照り留会われてであるとも言えるが、それ故に、人間がより「自然(合理的)」な形を想像することが出来るし、むしろそうするべきであるという積極的態度を生むことになる。

他方で、それ自体が秩序を有して出現したものであると捉えると、確かにその選択自体は偶然であってもその偶然の範囲は決定的な範囲にすぼめれ、まさにこの点で選択の秩序が働いているとも言え、その存在自体に理由が存在し秩序に裏打ちされているとみてとる、故に、それが「あるがまま自然(必然的)」な形であり、様々な手法が採りうるとしても、その自然法則に従うことで合理的に解決が図れるという、先に示した還元主義の立場に比べれば消極的といいうる立場を取る。

是他の立場の違いから推定される積極性、消極性は、科学そのものに影響をあたえてしまうというものではない。どちらの立場に於いても、やはり科学を推進すべきであるという協力な動機は導かれるし、ある行為が科学と呼ばれるに値するという時の必要条件も同じだ。むしろこれらの立場の相違は、科学技術の開発・応用・適用に於いて出現するし、それぞれの立場は、科学・技術と社会のありようにおいて、きわめて重大な動機の形成の根幹をなし得る考え方となる。

すなわち、還元主義からは、技術の使用は常に積極的であるべきであり、技術の発展は間違いなく人類を幸福にするという信念と結びつきやすい。偶然の中に偶然にあるのであるから条件を満たすように介入することによって、偶然の上の不確定な存在から、必然の上の確定的存在であることを求めるのである。反対に、総体主義からは、必ずしも人類の行為自体すべてを肯定するには至りにくい。総体の中に於いて人類のいるべき場を想定する方向に向きやすい。

還元主義と総体主義

これらの違いを生じる根本として、還元主義と総体主義という立場の存在を仮定し、議論を進めてきたが、さらにこれら二つについて、何故に技術使用の積極性・消極性を帰結するのかについて少し詳しく述べてみたい。

還元主義に於いては、あくまでも要素自体が重要であるが故に、要素への還元が完了してしまうとともに任務も完了する。ここに来て次のステップとして、総体を要素に還元したのだから、要素を再合成することによって総体を構築できるということになる。現にそうした上に成り立ってきた技術という実験の成果物応用品がある。

つまりは、還元主義に於いては要素同士を正しい組合せで調合すれば、総体になるのであるから、その調整を行うことでいかように意のままに総体を再現することが出来る。復元した総体が、完全ではないのは、調合の仕方が不十分であったためであると言うことになり、完全なレシピさえあれば良いのであり、そのレシピの追求が科学の真理追究の側面と目的が重なるのである。であるから、社会における技術の利用についても、おおよそ技術の不完全生を指摘するような批判に対しては、技術が完全になりさえば使ってよろしいと言うこととなり、社会における技術利用について実質的には制限がない状態になる。

一方、総体主義に於いては、プロセス自体に重きを置くので、要素自体については、ほとんど捨象される傾向にある。すなわち、プロセス自体が維持しうるのであれば、要素自体はそれほど重要性を持たず、故に総体であるものを還元してところで再び再合成によって総体が復元できるのではなく、プロセスの再現こそが総体を再びなし得ると考える。よって、プロセスの解明が完了すれば、還元主義と同じ結論に至りうるが、プロセス自体の複雑性という前提となっている認識故に、ある事象に関するプロセスの部分的解明ではなく、全体眺望からのそのプロセスの位置づけをも射程に入っており、故にプロセスの解明に関して慎重な面(大胆な謙虚さ)という態度的傾向あると考えられる。当然に、技術の応用利用に関しても、必ずしも積極的であるとは言い切れない面がある。

つまりは、これらの二つの違いの根本的趣向の違いは、人間の活動を真理(世界)に対してどのように位置づけているかに依っている。還元主義に於いては、人間の存在自体偶然の産物であるとして、偶然の事象の中に埋没させて低き評価しているように見えうるが、その偶然を操作しうるのであれば、操作し出来る者が操作してしまって良いという人間中心的な考え方がある。総体主義は、逆に人間も又世界秩序の中野一地位を与えられて存在であるとして看做す。よってその地位に適合した振る舞いをしなければならないという風に捉える考え方を生みやすいのである。

科学の世界観

科学はそれ自体は、イギリス経験論の流れの上にあるが、個々の科学に用いられる手法に注目してみれば、還元主義はデカルトにその源流をみることが出来るし、総体主義はスピノザ、ゴットフリード・ライプニッツにさかのぼることが出来よう。また、ヴィトゲンシュタインなどの論理哲学にみることが出来るのではないか。

還元主義が科学に於いて有利な立場にあることができるのは、その手法に於いて理性(論理モデル)を前面に押し出すことが出来るからである。大陸合理主義においては、理性を前面に出し、演繹法を重視する。これは、特に物理や化学など原題に至るまでその対象を比較的抽象的にしか捉えることが出来なかった分野に於いて、要素を還元によるモデルの構築による解決という手法が非常に有効であった。つまりは、実権から得たデータを基にデータ同士の関連を合理的に導くことが出来るモデル(仮定・仮説)を構築し、そのモデルはさらに実験によって検証される。つまり全体としては経験主義的過程、事実の積み重ねという手法に則りながら、モデル(仮定・仮説)を経験の中に織り込むことによって、一連の事実の流れが正しければ、その中に位置づけられたモデルも事実に等しいであろうという手法を確立したのである。この考えを支持するためには、それぞれの事実が独立にあると言うこと、事実の絶対的扱いが重要なのである。

是は合理主義の科学における大きな成果であるし、この基本的文脈は、還元主義、総体主義ともに同じである。しかしながら総体主義においては、全体のシステムにおけるプロセス、つまりは、事実の流れ、経験の積み重ね方自体に疑問を持つことが特徴的である。この意味で論理哲学にもいくらか影響を受けているように思われる。すなわち、事実の流れというテキスト(文脈)自体に重きを置き、それらを構築する事実各々については、記号的扱いにとどまる。事実の扱いが非常に相対的なものとなるのである。

すなわち、科学というものを成立させている基本的立場(認識する側の内面の立場)と科学を適用していく応用的立場(認識する対象の立場)は、違う意識によって構築されているのではないだろうか。すなわち科学に於いて根本的な態度とそこから先の手法を適用する態度とは別々にあり、科学者はこの二つの乖離した世界を行き来しているのではないだろうか。故に、科学における基本的肯定のスタンスは同一にしながら、その担い手の世界観によって大きくみている者が変わっていることによって、その推進方法について温度差があるということではないだろうか。

生物学における還元主義(作成中)
生物学における総体主義(作成中)

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