兮fter Limonium sinuatum - 4 -

例えばの話、もしこのまま自分の声が戻らなかったなら、この生活は延々と続くのだろうか、とか。

例えばの話、もし彼の怪我が回復しなかったなら、この生活が終わったりはしないのだろうか、とか。

例えば、例えば、とそんなことばかりが頭を巡り始めたのは、アルヴィンとの期限付きの生活が始まって何日目だっただろうか。
あるいは最初からそんなことを頭のどこかでは考えていたのに、意識してそれを遠ざけていただけだったのだろうか。
おかしなことに、しばらく前はひとりの生活が普通だったはずが、今ではひとりの生活に戻ることが正直嫌で仕方ない。

 「おーい、ジュードくーん」

呼びかける声が耳に届き、俯き気味になっていた顔をはっとしてジュードはあげた。
真向かいに座るアルヴィンが訝しげな顔でこちらを見ていて、首を僅かに傾けて応じれば、
彼の左手が持つフォークがジュードの手元を指し示している。

手元に視線を落とせば、テーブルの上に置かれた白くて丸い皿の上で焼きたてのピーチパイのパイ生地が粉々になっている。
考え事をしているうちに、どうやら無意識ながら何度もフォークで突いてしまっていたようだ。

 「大丈夫かよ、ここすんごい皺寄ってんぜ?」

そう言いながらアルヴィンは彼自身の眉間を右手の指差しでくいくいと指差している。
瞬きを数回、眉間からも力が抜けたところで、何とも恥ずかしくなってジュードは苦笑した。
どうやら随分と思考が深く深く落ち込んでいたらしい。

 「何だ、今日の診察の結果でも悪かったのか?」

悪かったといえば悪かったし、よかったといえばよかった、首を縦にも横にも振れず曖昧に笑って応じた。
言葉遊びのようではあるが、実際タリム医学校での診察では声帯まわりの神経は快調の方向に向かっていると言われて、
しかしそれはつまりこの生活ももう長くはないのだろうという現実を物語っている。

あんなにも研究に没頭していたのに、学業と研究とが中断させられて焦っていたというのに、
ここで立ち止まっている場合ではないとじれったい思いをしていた自分は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
やらなければならないことは山ほどあるというのに、ここ数日のこの幸せな日々が感覚を麻痺させているようにすら感じた。



午前中にタリム医学校で診察を受けて昼頃に戻り、昼食後はのんびりと過ごして夕方頃になった頃合、
部屋に鳴り響いたベルの音が来訪者を知らせる。
アルヴィンと並んで座っていたソファから立ち上がり、部屋の扉へと向かった。

 「こんにちは、ジュードさん」

扉を開くと見慣れた姿がある、来訪者はローエンだった。
にこりと笑顔で応じ、部屋の中へと促せば彼は笑顔で礼を述べる。
来訪者が誰なのかに気づいたアルヴィンが、ソファでローエンに声をかけている。

 「よう」
 「アルヴィンさん、大分顔色もよくなったようで安心しました」
 「あぁ、今日の午前中に診てもらってな、傷も完治までもう一息だってよ」

頷いて相槌を打ちながら、ローエンはアルヴィンの向いのソファへと腰かけた。
ジュードはローエンの紅茶を準備しようと、一旦台所の方へと向かう。
お湯は大目に沸かして、自分とアルヴィンのおかわり分も用意しながら、新しいティーカップを一組用意した。

トレーにティーポットとローエン用のティーカップ、温めたミルクも乗せて、
アルヴィンとローエンのいるソファへと足を向ける。
ティーカップをローエンの前に置き、ティーポットを手にとってなみなみと注いだ。

 「すみませんジュードさん、ありがとうございます」

小さく笑顔で頷いてみせたあと、ミルクをテーブルへと置いてアルヴィンと自分の空いたカップへも紅茶を注ぐ。
角砂糖をアルヴィンのカップに2つ、自分のカップに1つ入れたあと、
アルヴィンのカップにはミルクも入れたところで、ジュードはアルヴィンの隣に腰かけた。

 「おやおや、何だか見せつけられている気分ですね」

何の話か分からず首を傾げれば、にやにやと笑っているアルヴィンが彼のティーカップを指差す。
少しの間を置いたところでようやく話が分かり、急に恥ずかしくなってきた。

ここ数日でアルヴィンの嗜好もおよそ把握できたため、
紅茶を淹れるときには彼のカップに角砂糖とミルクをいれるところまでが一連の流れとして定着していた。
しかしそれをローエンの前でやるのは、改めて考えるといささか思うところもある。

 「ジュードくんの愛の力で快調に向かってるわけよ」
 「いやはや、それは何よりです」

悪乗りするアルヴィンとそれに極普通な相槌を打つローエンという状況に、
なんとも居た堪れない気分になり、ジュードは右隣に座っているアルヴィンの左肩を少し強めにはたいた。

 「さて、ジュードさんも困っているようですから本題に入るとしましょう」

紅茶を混ぜていたスプーンをソーサーに置き、ソーサーごと持ち上げてローエンがカップを傾けた。
まったくもってこの大人たちの悪乗りには困ったものだとジュードは小さく溜め息を零す。
ジュードもスプーンを手にとり、紅茶をひと混ぜしたところでローエンと同じようにして紅茶を口にした。

 「ようやくエレンピオスの異界省とのやりとりが一段落つきました」
 「それで、結果は上々だったのか?」
 「えぇ、先日捕らえたアルクノアの彼らも近いうちに異界省へ引き渡しとなる予定です」

生活保証も含めて、異界省側で対応を検討してくれているとローエンは言う。
とはいえど、異界炉計画の過激派としての活動は、異界省としてはもともと監視すべき行為であったため、
今回の一連のできごとに対する処罰も考える必要はあるだろうとのことらしい。

 「異界省側としては、リーゼ・マクシアとの関係悪化は回避すべきことと考えているようですから」
 「ま、共存共栄のスタンスでいかない限りは後先ないのは明らかにエレンピオスだしな」
 「建前での演出だとしても、悪い話ではないでしょう」

同情の余地があるとはいえ、リーゼ・マクシアに損害を与えたことを踏まえれば処罰も仕方ないのだろう。
アルヴィンのその表情から複雑に思うところはあるものと窺えたが、
それでも彼らの生活保証が異界省側でされるのならひとまずは安心できそうだ。

 「その後はイル・ファンでも彼らの活動も見受けられませんので、ひとまずは・・・・・・というところです」
 「なるほどな」
 「アルヴィンさんのご実家の件は、解決したとは言い難いところですが」

苦笑気味に言うローエンに、アルヴィンが肩を竦めて応じた。
確かに、彼の実家で起きている当主争いに関しては何も解決していない。
アルヴィンとしてもあの銃を手放す気はないようで、ともすれば何かしらかのかたちで当主が決まらない限りは
今後もアルヴィンが騒動に巻き込まれかねないということになるのだろう。

 「あれは放っておけばいいさ」
 「アルヴィンさんがそう仰るのならこれ以上言うこともありませんが・・・・・・」

如何せん実家の話ともなれば、そこは第三者があれこれ言える話でもない。
ローエンとしても色々と言いたそうな様子ではあったものの、
身の回りには今後も一応気をつけてほしい、と言葉をかけるのみだ。

 「あとはジュードの声と俺の傷が治れば解決ってとこだな」

アルヴィンの言葉に胸の内がもやもやとするのを感じる。
この生活が始まった時の喜ばしさから、終わりが近づいてくることへの寂しさへと、
ジュードの心を占める感情が移り行くことをジュード自身も改めて感じずにはいられなかった。


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夏休みが始まる時のわくてか感から終わる時の物悲しさの感覚は結構好きです。