--大阪市立美術館(天王寺公園内)
「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念 特別展「祈りの道〜吉野・熊野・高野の名宝〜」開幕。

主催者挨拶(関淳一大阪市長)
「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念
特別展「祈りの道〜吉野・熊野・高野の名宝〜」開幕
紀伊山地の神仏が一堂に集う
8月9日(月)に大阪市立美術館に於いて、待望の『祈りの道』展の開会式が華やかに挙行された。今回の世界遺産登録の3県の知事、吉野・高野の高僧、熊野三山の宮司、そして大勢の招待客、関係者が集う中、最初に野呂昭彦三重県知事の主催者として挨拶があった。その後、テープカットのセレモニーが行われここに展覧会の開幕が高らかに告げられました。この後、初めての試みとして、展覧会の魅力をタクシーの運転手の方々に知ってもらい展覧会と美術館そのものをPRしてもらうことを期待して見学会も開催された。
◎本展覧会は、世界遺産を登録を記念し、修験をはじめ多様な信仰の歴史と伝説をもつ「吉野・大峯」、神仏が習合した熊野信仰で多くの参詣者を集めた「熊野三山」、弘法大師空海が開いた真言密教の聖地「高野山」、そしてその参詣道である大峯奥駈け道、熊野古道や高野町石道にたたずむ寺社が所蔵する名品約250件(国宝・重要文化財約90件を含む)を特別公開します。
※総出品点数は307件、その内、大阪会場ではおよそ250件が見れる。国宝・重文は90件。主に3回の展示替えがあるので注意して欲しい。『国宝 那智滝図』は8月10日〜20日迄の期間限定です。
美術館全体がお山に変身。
逝く夏を惜しむかのように、熊蝉が声をかぎりに鳴いている。天王寺公園横の美術館への小道は、以前はカラオケ通りと呼ばれ賑やかだったが、今は両側に百日紅やムクゲ等の四季折々の樹木が植えられ、もう少しばかり咲いているものもあり、すっかり面目を一新していた。
美術館の正面には金峯山寺の蔵王権現立像の写真パネルがまるで山門の仁王像のように睨みをきかして迎えてくれる。滝の写真も涼感を誘う。一歩館内に足を踏み入れると大空間のロビーの天井から、杉木立の絵柄の紗の懸垂幕が吊り下げられ、また正面階段の上には淡い調子の深山幽谷の景色の幕がある。階段の左側には大峯修験道の奥駈けの写真、そして右側に熊野那智大社の火祭の写真があり、吉野・熊野・高野のイメージで包んでくれる。正面階段はまるで「紀伊山地の霊場と参詣道」に通じる山道のようだ。
『古【いにしえ】の時代から、人々は何を求めて紀伊山地霊場を訪れたのか、人々の心の拠り所は何であったのかに思いをめぐらせてみることは、現代の私たちに生きるヒントを与えてくれるでしょう。』【祈りの道展覧会図録より一部転載】

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自然遺産と文化遺産の融合した紀伊山地の魅力を6つのテーマに分けて紹介。
第1章:「吉野・熊野・高野をめぐる人々」
第2章:「参詣と修行の道〜熊野古道と大峯奥駈(おくがけ)道〜」
第3章:「高野山町石道(ちょういしみち)と高野山の名宝」
第4章:「吉野・大峯と修験道の遺宝」
第5章:「熊野信仰と三山の遺産」
第6章:「霊場と道中の名宝」
木造「弘法大師坐像」良円作
山道(階段)を上がり、初めての展示室に入ると正面に弘法大師と西行法師像が仲良く並んで座っておられる。まるで訪れる人を迎えてくれているようだ。また尊くおごそかでもある。
・後白川法皇の自書、鳥羽上皇像や親鸞聖人絵伝、一遍上人像等々多くの高僧、貴い人がこの地に深く関わっていたことがわかる。
熊野詣で有名な、小栗判官は浄瑠璃や歌舞伎の演目になっているが、『小栗判官』絵巻は、毒をもられて痩せ細った小栗を同じ熊野詣の参詣者に車を曳いてもらい助けられ、湯の峰温泉に入り元の姿に戻るストーリー、冥土からの蘇りというテーマをまるで4コマ漫画のように描いている。
修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が前鬼(吉野には今も前鬼の後裔だと称する人達がいる。)、後鬼を伴う、特異な像は自ら荒行を積み出現させた蔵王権現の憤怒の形相と厳しさのところで共通している。
第1章:「吉野・熊野・高野をめぐる人々」
日本の政治文化、宗教史に名前を留める多くの歴史上の
人物に焦点を当て、その肖像や筆跡を紹介。
往昔から桜の名所として著名な吉野山は、飛鳥や奈良からも近く、古代の吉野離宮が造営され、天武・持統天皇をはじめ多くの天皇、皇族が訪れたことが正史に記載されています。また吉野は、修験道の開祖とされる役行者【えんのぎょうじゃ】以来、金峯山【きんぷせん】(大峯山)を中心とする山岳信仰の聖地となり、平安時代には藤原道長ら、皇族・貴族が納経を目的として盛んに参詣し、後醍醐天皇に始まる南朝の拠点となりました。
都から遠く離れた熊野の地は、日本古来の海洋宗教や山岳宗教が仏教と習合し、平安時代以降は仏菩薩の浄土、またはその入口として篤い信仰を集めました。上皇・貴族による熊野三山への参詣(熊野詣)は10世紀から始まり、12世紀後半から13世紀に最盛期を迎えました。ことに鳥羽・後白河・後鳥羽三帝の度重なる参詣は100回近くにのぼり、以後一般庶民へも広がり「蟻の熊野詣」と呼ばれました。これに弘法大師空海が開いた真言密教の霊場高野山を加えると、紀伊山地の霊場は都と深い結びつきを有してきたことがわかります。日本の政治や文化、宗教史に名前を留める、多くの歴史上の人物が紀伊山地の霊場をめぐっており、人々の活発な動きが、霊場と参詣道の維持・整備につながったといえましょう。【祈りの道展覧会図録より転載】
左:木造「西行法師坐像」益田慶運作 江戸・天明5年(1785)(奈良・吉野水分(みくまり)神社)/右:木造「弘法大師坐像」良円作 鎌倉・永仁2年(1294)(和歌山・遍照寺)
左:「親鸞聖人絵伝 第五・六幅」南北朝時代(京都・西本願寺)
 右:「鳥羽上皇像」南北朝時代(和歌山・根来寺)

木造「役行者倚像・前後鬼坐像」鎌倉時代(奈良・法隆寺)
展覧会シーン取材:2004年8月9日、掲載:8月13日(更新)
取材・写真・Webデザイン:ストリート・アートナビ 中田耕志
本文、写真キャプションは「祈りの道」展覧会資料・図録を参考にしました。

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