大阪市立美術館(天王寺公園内)----
「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念 特別展「祈りの道〜吉野・熊野・高野の名宝〜」
自然遺産と文化遺産の融合した紀伊山地の魅力を6つのテーマに分けて紹介。
第1章:「吉野・熊野・高野をめぐる人々」
第2章:「参詣と修行の道〜熊野古道と大峯奥駈(おくがけ)道〜」
第3章:「高野山町石道(ちょういしみち)と高野山の名宝」
第4章:「吉野・大峯と修験道の遺宝」
第5章:「熊野信仰と三山の遺産」
第6章:「霊場と道中の名宝」
吉野曼陀羅図や那智参詣曼陀羅等によって、昔から吉野・大峯と熊野が道でつながっているのがわかる。熊野那智大社には海辺に鳥居があり人々は船で参詣している。「蟻の熊野詣」と云われた往事のにぎわいと繁栄に目をみはる。

熊野観心十界図には、人の一生を童子から壮年そして老人になる様子、恐ろしい地獄の様相が描かれている。
第2章:「参詣と修行の道〜熊野古道と大峯奥駈道〜」
古来多くの人々が行き交わった「道」をテーマに、参詣曼荼羅や古絵図を通して当時の参詣道や道中の様子を感じとる。
都から多くの人々を集めた紀伊山地の霊場には、様々な「道」が発達していきました。とくに都から離れた熊野への参詣道は距離が長く、紀伊半島の西岸をたどる「紀伊路」が中心を占め、田辺から本宮に向かう「中辺路【なかへち】」や潮岬を廻る「大辺路【おおへち】」、高野山から直接本宮に向かう「小辺路【こへち】」があります。またこれとは別に紀伊半島の東側から多気、尾鷲を経て本宮に入る「伊勢路」がありました。「伊勢路」は都の貴族たちが伊勢両宮(内宮・外宮【ないぐう・げぐう】)に参宮してから、熊野へ参詣するための街道でもあり、平安後期以降に盛んに利用されてきました。こうした参詣道の一部は、現在「熊野古道」として整備が進められ、多くのハイカーたちが訪れています。
一方、吉野から大峯山を経て熊野に至る峰道は「大峯奥駈道」と呼ばれ、修験道の二大聖地を結ぶ修行の道として、修験者(山伏【やまぶし】)が盛んに往来しました。近畿の屋根を南北に貫くこの奥駈け修行は、大自然との一体化を目指す修験道の精神に基づくもので、現在でも多くの人々の修行の場とされています。【祈りの道展覧会図録より転載】
左:「那智参詣曼陀羅図」室町時代/中:「熊野観心十界図」室町時代(和歌山・正覚寺)/右:「那智参詣曼陀羅図」室町時代(和歌山・正覚寺)

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木造「大日如来坐像(旧勧学院本尊)」平安時代後期(和歌山・金剛峯寺)
第3章:「高野山町石道(ちょういしみち)と高野山の名宝」
山麓から奥之院に至る高野山町石道の資料と、「山の正倉院」と呼ばれる高野山の魅力を、仏教美術の名品で紹介。
町石道は弘法大師空海が高野山に登るに際して整えたと伝えられ、古来高野山の政所【まんどころ】のあった慈尊院から、高野山上に至る登山道です。山麓から壇上伽藍【だんじょうがらん】までの180町(約20H。1町は約109メートル)と、伽藍から大師の御廟のある奥之院までの36町の1町ごとに卒塔婆状の石標があり、現在の石標は、鎌倉後期に鎌倉御家人らの尽力により建立されたものが中心を占めています。
その高野山は、高野山真言宗総本山の金剛峯寺
【こんごうぶじ】を中心に、多数の子院が軒を連ねる山上の宗教都市で、貴重な文化財の数々を伝えています。その主流をなすのは、曼陀羅や密教尊像などの密教美術ですが、中世以降の多様な信仰に基づく文化財も含め、「山の正倉院」と呼ばれるにふさわしく、密教以外の名宝も多数伝えています。【祈りの道展覧会図録より転載】
「高野山参詣図」4幅 江戸時代(和歌山・持明院)
右端:木造「毘沙門天立像」鎌倉時代(和歌山・正智院)
木造「如意輪観音坐像」平安時代後期(和歌山・如意輪寺)
展覧会シーン取材:2004年8月9日、掲載:8月13日(更新)
取材・写真・Webデザイン:ストリート・アートナビ 中田耕志
本文、写真キャプションは「祈りの道」展覧会資料・図録を参考にしました。
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